背景と状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 23:27 UTC 版)
「ジャンヌ・ダルク処刑裁判」の記事における「背景と状況」の解説
1429年の春、ジャンヌ・ダルクは啓示を受け、フランスのシャルル王太子(後のフランス王シャルル7世)の軍隊に一連の素晴らしい軍事的勝利をもたらし、イングランドに包囲されていたオルレアンを5月に解放し(オルレアン包囲戦)、残りのイングランド軍の大部分を6月のパテーの戦いで破壊し、百年戦争の過程を逆転させる。7月17日、王太子であるシャルル7世はランスで戴冠した。 だが、9月のパリ包囲戦ではシャルル7世の命令によってフランス軍が撤退、11月のラ・シャリテ・シュール・ロワール包囲戦(英語版)ではジャンヌは軍事的失敗をした。翌1430年3月、ブルゴーニュ派とのコンピエーニュ包囲戦でフランス軍の撤退時に最後尾にいたジャンヌは、コンピエーニュの門の前で捕縛され捕虜となる。ブルゴーニュ派はブルゴーニュ公フィリップ3世(善良公)が率いる派閥で、イングランドと同盟していた。 ブルゴーニュ派はジャンヌをトゥール貨10,000リーヴルでイングランドに引き渡した。12月、ジャンヌはイングランド王ヘンリー6世のフランスの軍事本部と行政首都であるルーアンに移され、教会裁判で決められた時よりも早く、イングランド支持のフランス人司教ピエール・コーションが率いる異端審問にかけられた。
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