背景と狙い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/06 03:27 UTC 版)
19世紀前半、ラテンアメリカ各地で独立運動が起こった。19世紀初頭のナポレオン戦争(特に半島戦争)は、スペインのアメリカ植民地に対する支配力を弱め、中南米諸国は次々に独立へと動き出していった。これに対しスペイン本国は、中南米植民地での独立運動を鎮圧しようとした。ナポレオン失脚後のヨーロッパは自由主義、ナショナリズムを敵視する保守反動的なウィーン体制下にあったため、この体制を主導していたオーストリアの政治家メッテルニヒは、独立運動への干渉を図った。また、独立運動を支持する姿勢をみせていたイギリス(おもに自由党)の狙いは、ラテンアメリカに工業製品を輸出し、農産物や資源を輸入して経済力を高めることであった。こうした動きを牽制するため、モンローが年次教書において、アメリカ大陸とヨーロッパ大陸の相互不干渉を示すに至ったのである。 南北アメリカは将来ヨーロッパ諸国に植民地化されず、主権国家としてヨーロッパの干渉を受けるべきでない旨を宣言した。それはさらにヨーロッパの戦争と、ヨーロッパ勢力と植民地間の戦争に対してアメリカ合衆国は中立を保つが、植民地の新設あるいはアメリカ大陸の独立国家に対するいかなる干渉もアメリカ合衆国への敵対行為とみなすという意図を述べたものであった。 合衆国にとって、もう一つの大きな懸念材料は、アラスカ(当時はロシア領)からロシアが太平洋沿いに南下政策を図ることであった。そのため、この教書はロシアのアメリカ大陸進出に対する牽制という狙いも含んでいた。 この宣言は欧州に対するアメリカ合衆国による「アメリカ大陸縄張り宣言」でもある。それに沿って1830年にインディアン移住法を定め、国家として先住民掃討を進め、また米墨戦争で領土を割譲させるなど、アメリカ大陸内での勢力拡大を推し進めた。「1833年、イギリスがフォークランド諸島を占領したが、特に措置を講じておらず、このときにモンロー主義は放棄されたと見ることができる。イギリス資本の進出が背景にあると見られる。」とする意見もあるが、アメリカ合衆国はそれ以前からフォークランド諸島を領有するアルゼンチンの勢力とはフォークランド諸島寄港問題で対立しており、アメリカ合衆国はフォークランド諸島については不干渉の立場をとっていた。 「モンロー主義の放棄」とは「アメリカ合衆国の縄張りはアメリカ大陸に限らない」ということでもある。そこで、先住民掃討完了を意味する「フロンティア消滅宣言」のあった1890年頃から太平洋進出を進め始め、1898年の米西戦争、ハワイ併合が続く。その後さらに米比戦争、中南米各国に介入する「棍棒外交」へと続いていく。
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