総本山金剛峯寺
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壇上伽藍の東北にあり、本坊である主殿が建つ。1869年(明治2年)、いずれも豊臣秀吉ゆかりの寺院である学侶方の巌寺と興行人方の山寺 (廃寺)を合併し、高野山真言宗総本山金剛峯寺と改称した。寺紋は桐紋と巴紋だが桐は豊臣家の家紋で、巴は地主神として祀られている天野社の紋である。青巌寺は、文禄2年(1593年)秀吉が亡母の菩提のために木食応其に命じて建立し、母の大政所の剃髪を納めたことから当初「剃髪寺」とよばれ、のちに「青巌寺」と改称する。「金剛峯寺」の寺号は空海が経典「金剛峯楼閣一切瑜伽瑜経」から名付けたもので、元来は高野山全体を指す名称であったが、明治期以降は、高野山真言宗の管長が住むこの総本山寺院のことを「金剛峯寺」と称している。主殿の持仏の間には1680年検校文啓の支持で制作された本尊弘法大師座像が祀られ、高野山開創1200年記念大法会(2015年4月2日 - 5月21日)で16年ぶりに開帳された。境内の広さは48295坪あり、主殿(1863年再建)、主殿から長い渡り廊下を渡ると、奥殿(1934年建立)、別殿(1934年建立)、新別殿(1984年建立)、阿字観道場(1967年建立)、蟠龍庭(石庭)などがある。和歌山県指定文化財となっているのは、大主殿一棟、奥書院一棟、経蔵一棟、鐘楼一棟、真然堂(廟)一棟、護摩堂一棟、山門一棟、会下門一棟の9棟と、それを取り巻くかご塀である。 正門 - 文禄2年(1593年)再建。かつて正門を利用できたのは皇族と高野山の重職の僧だけで、一般僧は右方にある小さなくぐり戸を使用した。 鐘楼 - 元治元年(1864年)再建と考えれている。袴腰付入母屋造り。 経蔵 - 延宝7年(1679年)に、釈迦三尊とともに寄進された。火災発生時に類焼しにくいように主殿とは別棟として建てられ、重要なものを収蔵していた。 主殿 - 文久3年(1863年)再建。東西 54 m 南北 63 m の書院造建築である。屋根は檜皮葺で、屋根上には雨水を貯める天水桶とよばれる桶が設置され、境内で火災発生時、桶の水を屋根にまくことで火の粉による類焼を防ぐ役割があった。大玄関と小玄関があり、大玄関は表玄関に相当し、かつては皇室、高野山の重職に就いている僧のみが使用した。小玄関は大玄関を使用できない上位の僧侶が使用し、一般僧侶は裏口を使用した。大広間 - 重要な法事・儀式が行われる間。狩野元信作と伝わる松、群鶴の襖絵がある。 梅の間 - 狩野探幽作と伝わる梅月流水の襖絵がある。 柳の間 - 文禄4年(1595年)に豊臣秀次が自刃したことから「秀次自刃の間」ともよばれている。山本深斉の四季の柳の襖絵がある。 書院上段の間 - 天皇・上皇が参詣した際に応接間として使用された。壁は総金箔押し、天井は折上式格天井の書院造りで、上段の間に上々段の間と装束の間があり、上段右側に武者隠しの間(稚児の間)がある。 稚児の間 - 上段の間の武者隠しの間で、天皇・上皇に随行した護衛が待機した部屋。狩野探斎作と伝わる襖絵があり、旧伯爵副島家より奉安された地蔵菩薩が祀られている。 奥書院 - 皇族方の休憩所として、上段の間と共に高野山最高の部屋として使用されていた。雲谷等益、雲谷等爾作と伝わる襖絵がある。 囲炉裏の間 - 「土を塗り固めて作った部屋」で土室とも呼ばれ、部屋の中に囲炉裏が設けられている。空海自筆と伝わる愛染明王が祀られている。 台所 - 江戸期以降、実際に使用され大勢の僧侶の食事を作った場所。大釜が3基並び、1基で約7斗(98 kg)、3基で約2000人分の米を炊くことができる。 別殿 - 1934年(昭和9年)弘法大師御入定1100年御遠忌大法会記念事業として建立。主殿から長い渡り廊下で繋がる。襖絵には、守谷多々志筆による、四季の花鳥や弘法大師入唐から高野山草創までの風景が描かれている。 奥殿 - 1934年(昭和9年)弘法大師御入定1100年御遠忌大法会記念事業として建立。総本山金剛峯寺の前身で、青巌寺と合併した興山寺の跡地に建ち、奥殿が建立されるまでは高野山大学、中学があった。 蟠龍庭 - 1984年(昭和59年)弘法大師御入定1150年御遠忌大法会記念事業として造園された日本最大級の2340平方メートルの石庭。雲海の中で雌雄一対の龍が奥殿を守っている姿を表現している。龍を表す石は四国の花崗岩を140個使用し、雲海を表す白川砂は京都産を使用。 新別殿 - 1984年(昭和59年)弘法大師御入定1150年御遠忌大法会記念事業として参詣者への接待所として建立。鉄筋コンクリート造り、入母屋、91畳と78畳の二間からなり、169畳の大広間として使用できる。金剛峯寺内部有料拝観者には新別殿にて茶菓子が振る舞われる。 新書院・真松庵 - 1965年(昭和40年)の高野山開創1150年記念法会の際、松下幸之助により寄贈され、茶室は佐藤栄作により「真松庵」と名付けられる。1971年(昭和46年)黒潮国体の際に昭和天皇と香淳皇后が宿泊した。 阿字観道場 - 1967年(昭和42年)金剛峯寺第401世座主の発願で建立。本道場にて真言宗における呼吸法・瞑想法の阿字観体験が行われている。 真然堂 - 主殿裏の丘に建つ真然の御廟。750回忌の寛永17年(1640年)に建立され、1990年(平成2年)真然大徳1100年御遠忌記念事業で解体修理された。元々、真然堂として祀られていたが、解体修理の際に、遺骨が入っていた御舎利器が発見されたため、現在、真然廟として整備されている。 鐘楼。右後方に見えるのは正門 主殿の大玄関(左)と少玄関(右) 台所 台所 経蔵 蟠龍庭
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