宗団の近代化
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1872年(明治5年)、古義真言宗を統括すべく管長職が設置され、金剛峯寺住職の降魔研暢が命じられた。1873年(明治6年)3月29日、太政官達が下り、教王護国寺東寺と金剛峯寺の両寺が、古義真言宗の総本寺と定められた。 政府の宗教政策である一宗一管長制が、古義・新義真言宗各本山にも求められた。古義真言宗では教王護国寺東寺、金剛峯寺・新義真言宗は智積院・長谷寺が交替で、真言宗の管長に就任することになった。管長は全真言宗を統括し、宗務に当たることとなり、真言宗にも一宗一管長制が導入されることとなった。 しかし、1878年(明治11年)、仁和寺・大覚寺・広隆寺・神護寺・西大寺・法隆寺・唐招提寺が古義真言宗から離脱し、仁和寺内に西部真言宗と称する宗派を立てて、独自の管長を置く。また、新義真言宗の智積院・長谷寺も離脱し、真言宗新義派と称して独自の管長を置き、古義真言宗の金剛峰寺・東寺は合併して、古義真言宗から真言宗と称して独自の管長を置いた。こうして、真言宗は一宗一管長制が瓦解して、西部真言宗・真言宗新義派・真言宗となり、3人の管長が存在する状態となった。このことは、政府の知るところとなり、内務省から、一宗一管長制を採るよう通達があった。これを受け、霊雲寺において、古義派・新義派で合同会議が行われた。結果、1879年(明治12年)に正式に合同が図られた。あわせて、教王護国寺東寺を総本山にして、長者の称号を復することになった。
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