宗名論争
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安永3年(1774年)、西本願寺と東本願寺は一致して幕府に対して「浄土真宗」のみを公式名称とするように求める意見書を提出し、真宗仏光寺派・真宗高田派など非本願寺系真宗各派もこれに呼応した。 寺社奉行松平忠順は、徳川将軍家の菩提寺である寛永寺(天台宗)と増上寺(浄土宗)に意見書に対する見解を求めた。寛永寺は他宗の問題である事を理由に宗派に任せる姿勢を見せたのに対して(事実上の容認)、増上寺は激怒した。増上寺は法然の直系である浄土宗こそが「真の浄土宗」であり、異端である一向宗が「真」の字を用いる事をむしろ禁じるべきであると回答した。 浄土宗側の主張は根拠のないことではない。親鸞は『高僧和讃』において「智慧光のちからより、本師源空(法然)あらはれて、浄土真宗ひらきつゝ、選択本願のべたまふ」と著しており、師である法然を真の浄土宗の指導者としてその教えを「浄土真宗」と評した。親鸞は自らを法然の継承者として「真実之教浄土真宗」(『教行信証』)と述べている。現在浄土宗とは別の宗派であると主張する親鸞の門徒(真宗教団)が「浄土真宗」を採用するのは不当であると浄土宗側は主張したのである(なお、蓮如が「浄土真宗」を公式の名とするように説いた半世紀前の正長元年(1428年)に後小松天皇が金戒光明寺山門に「浄土真宗最初門」の勅額を掲げさせている)。 翌年松平忠順が寺社奉行を辞任し、太田資愛が後任となった。太田資愛は老中田沼意次と協議し、増上寺をはじめとする浄土宗寺院の幕府への貢献が格別であるとして浄土宗の主張を受け入れ、真宗教団の宗派名を正式に「一向宗」とする事を決定した。これに対して真宗教団各派は激しく抗議したため、その後審議のやり直しを決定したものの、実際には単なる先送りに他ならなかった。 その間に増上寺は浄土宗各派に対して「浄土真宗」の名称を用いる事が出来るのは浄土宗寺院だけであるという見解を出し、増上寺に「浄土真宗」の額を掲げるなどの圧迫を加えた。真宗側は追い詰められ、天明8年(1788年)には上洛の帰途箱根山を通過した老中松平定信に対して浅草本願寺の僧が直訴する騒ぎとなった。 これに苦慮した定信は、寛永寺の輪王寺宮公延入道親王に仲裁を願い出た。公延は翌寛政元年(1789年)に仲裁案を出したが、それは「3万日」の間寛永寺でこの問題を預かりその後に改めて議論するというものであり、真宗側もこれに従わざるを得なかった。これを「宗名論争(しゅうめいろんそう)」という。以後、真宗教団はあくまでも「一向宗」の呼称を拒否して門徒宗(もんとしゅう)などの言い換えを行った。 明治政府が成立すると、神道国教化の過程で仏教統制の必要性を感じた新政府は、真宗教団に対して「浄土真宗」・「門徒宗」など「一向宗」以外の呼称を改めて禁じようとした。ところが廃仏毀釈の問題も相俟って真宗教団側の猛反発を買った。 真宗教団側ではこの裁定を下した江戸幕府が滅亡したこと、そして何よりも既に約束の「3万日」が到来していることを理由に、改めて「浄土真宗」の呼称を認めるように迫った。明治5年(1872年)、明治政府は浄土宗の手前「浄土真宗」を認めることはできないが、略称の「真宗」であれば認めるとする見解を出した。これに従い、真宗教団の寺院は以後「真宗」を公式名称とする。 国家による宗教統制が解かれた第二次世界大戦後、西本願寺を長とする浄土真宗本願寺は浄土真宗本願寺派と正式に名乗るようになった。本願寺派以外の9つの真宗系宗派は、現在もそれぞれ「真宗○○派」の呼称を用いている。
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