宗名論争とは? わかりやすく解説

宗名論争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/15 02:46 UTC 版)

一向宗」の記事における「宗名論争」の解説

安永3年1774年)、西本願寺東本願寺一致して幕府に対して浄土真宗」のみを公式名称とするように求め意見書提出し真宗仏光寺派真宗高田派など非本願寺真宗各派もこれに呼応した寺社奉行松平忠順は、徳川将軍家菩提寺である寛永寺天台宗)と増上寺浄土宗)に意見書対す見解求めた寛永寺他宗問題である事を理由宗派任せ姿勢見せたに対して事実上容認)、増上寺激怒した増上寺法然直系である浄土宗こそが「真の浄土宗」であり、異端である一向宗が「真」の字を用いる事をむしろ禁じるべきであると回答した浄土宗側の主張根拠のないことではない。親鸞は『高僧和讃』において「智慧光のちからより、本師源空法然)あらはれて、浄土真宗ひらきつゝ、選択本願のべたまふ」と著しており、師である法然真の浄土宗指導者としてその教えを「浄土真宗」と評した親鸞は自らを法然継承者として「真実之教浄土真宗」(『教行信証』)と述べている。現在浄土宗とは別の宗派であると主張する親鸞門徒真宗教団)が「浄土真宗」を採用するのは不当であると浄土宗側は主張したのである(なお、蓮如が「浄土真宗」を公式の名とするように説いた半世紀前の正長元年1428年)に後小松天皇金戒光明寺山門に「浄土真宗最初門」の勅額掲げさせている)。 翌年松平忠順寺社奉行辞任し太田資愛後任となった太田資愛老中田沼意次協議し増上寺はじめとする浄土宗寺院幕府への貢献格別であるとして浄土宗主張受け入れ真宗教団宗派名を正式に一向宗」とする事を決定した。これに対して真宗教団各派激しく抗議したため、その後審議やり直し決定したものの、実際に単なる先送りに他ならなかった。 その間増上寺浄土宗各派に対して浄土真宗」の名称を用いる事が出来るのは浄土宗寺院だけであるという見解出し増上寺に「浄土真宗」の額を掲げるなどの圧迫加えた真宗側は追い詰められ天明8年1788年)には上洛帰途箱根山通過した老中松平定信に対して浅草本願寺の僧が直訴する騒ぎとなった。 これに苦慮した定信は、寛永寺輪王寺宮公延入道親王仲裁願い出た。公延は翌寛政元年1789年)に仲裁案を出したが、それは「3日」の間寛永寺でこの問題預かりその後改め議論するというものであり、真宗側もこれに従わざるを得なかった。これを「宗名論争(しゅうめいろんそう)」という。以後真宗教団あくまでも一向宗」の呼称拒否して門徒宗もんとしゅう)などの言い換え行った明治政府成立すると、神道国教化過程仏教統制必要性感じた新政府は、真宗教団に対して浄土真宗」・「門徒宗」など「一向宗以外の呼称改め禁じようとした。ところが廃仏毀釈問題相俟って真宗教団側の猛反発買った真宗教団側ではこの裁定下した江戸幕府滅亡したこと、そして何よりも既に約束の「3日」が到来していることを理由に、改めて「浄土真宗」の呼称認めるように迫った明治5年1872年)、明治政府浄土宗の手前「浄土真宗」を認めることはできないが、略称の「真宗であれば認めるとする見解出した。これに従い真宗教団寺院以後真宗」を公式名称とする。 国家による宗教統制解かれ第二次世界大戦後西本願寺を長とする浄土真宗本願寺浄土真宗本願寺派正式に名乗るようになった本願寺派以外の9つ真宗宗派は、現在もそれぞれ真宗○○派」の呼称用いている。

※この「宗名論争」の解説は、「一向宗」の解説の一部です。
「宗名論争」を含む「一向宗」の記事については、「一向宗」の概要を参照ください。

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