総柱型建物の登場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 08:18 UTC 版)
平安時代末期以後、掘立柱建物が一般集落の住居として竪穴住居に代わって全国的に普及するが、その形式は律令時代とは全く異なっている。律令時代には母屋(もや、身舎)と庇(ひさし)による構造形式を持ち、内部には間仕切柱以外の柱を立てないが、中世住居の主流は柱間間隔を2mないし2.4m前後として直接10~15の細い柱を母屋と庇の区別なく碁盤目状に立てる総柱型(そうばしらがた)の平面となる。総柱型建物の最古の例は摂関期にさかのぼる。 鎌倉時代に幕府の置かれた鎌倉では、礎石建物と掘立柱建物の両遺構が検出されるが、礎石建物は格式の高い武家屋敷の主要な建物のみに限定され、ほとんどの場合が掘立柱建物である。 総柱型平屋建物は当初は方眼の交点にすべて柱が立つものであったが、時代が進むにつれて屋内柱を省略する例が増加し、近世民家につながる様式となる。間取りが明確になってくるのは室町時代以後である。現存する日本最古の民家は兵庫県神戸市の「箱木千年家」(15世紀)でこの系統を引き、土間側1本、座敷側2本の柱の省略があるのみで、構造的にも総柱型建物の古式を伝えるものである。 総柱型平屋建物は、京都の公家層・地方の地頭層から一般集落に至る各階層の住居に普及する、当時としては全く新しい建築様式であり、また日本独自のものである。
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