第11の哨戒 1944年9月 - 11月
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「シードラゴン (潜水艦)」の記事における「第11の哨戒 1944年9月 - 11月」の解説
9月23日、シードラゴンは11回目の哨戒でシャーク (USS Shark, SS-314)、ブラックフィッシュ (USS Blackfish, SS-221) とウルフパックを構成しルソン海峡方面に向かった。10月3日にサイパン島に寄港し、翌10月4日に出港の予定だった。しかし、電池が故障したため修理を行い、10月5日に出港。10月9日、シードラゴンはバタン諸島近海でシャーク、ブラックフィッシュと再会し、哨戒海域で行動を開始した。 10月21日夜から10月22日朝にかけては、第38任務部隊(マーク・ミッチャー中将)の攻撃で追い立てられたと考えられた日本艦隊を捜し求めたところ、22日未明に北緯21度57分 東経118度14分 / 北緯21.950度 東経118.233度 / 21.950; 118.233の地点で隼鷹型空母と思しき艦艇と4隻の大型艦、および3隻ないし4隻の駆逐艦からなる機動部隊を発見して攻撃し、隼鷹型空母を撃破したことを報告した。10月24日朝6時15分、シャークが敵との接触を報告してきたので、シードラゴンはその情報に基づいて移動した。7時30分に潜望鏡で目標を発見したが、距離が遠かった。9時20分、シードラゴンは護衛艦と航空機に護衛された3隻の商船を発見。これはマニラを10月20日に出航し高雄に向かっていたマタ30船団で、指揮艦である駆逐艦春風の名前を取って別名「春風船団」と呼称されていた。10月23日17時30分のソーフィッシュ (USS Sawfish, SS-276) による元特設水上機母艦君川丸(川崎汽船、6,863トン)撃沈によって攻撃が開始され、ソーフィッシュ、ドラム (USS Drum, SS-228)、アイスフィッシュ (USS Icefish, SS-367) のウルフパックと、合流してきたスヌーク (USS Snook, SS-279) によって船団は深刻な状況に陥っていた。10時55分、シードラゴンはこの時点での船団の一番船になっていた海軍徴傭船大天丸(大阪商船、4,642トン)に対して魚雷を4本発射。大天丸は空船で船体が浮かび上がって5ノットしか出せなかったが、最初の魚雷2本は何とか回避。しかし、1本が右舷機関室後部に命中。大天丸は12時ごろに船尾を下にして沈没した。 最初の魚雷の動きが護衛艦に察知され、11時1分に爆雷8発が投下された。11時54分に潜望鏡深度に戻すと、護衛艦は6キロ後方にいる遭難者の救助に駆けずり回り、残っている商船はシードラゴンの前方にいて、2ノットから3ノットで航行していた。12時14分に千鳥型水雷艇と思しき艦艇と2隻の中型貨物船に対して魚雷を4本発射し、3つの爆発音を得た。 シードラゴンは再び深海に潜航した後、15発の爆雷を投下され、13時10分に潜望鏡深度に戻った。この時点で残っている商船は1隻と判断され、その商船、海軍徴傭船營口丸(日本郵船、1,847トン)は停止して遭難者救助をしており、そのデッキは救助した遭難者で混雑していた。護衛艦が營口丸の周囲を警戒していたが、シードラゴンは隙を突いて14時4分に魚雷を発射。最初の魚雷が營口丸の左舷船首に命中し、營口丸はたちまち前半分が沈み、大分時間が経ってから船体が全没した。1分後から25発の爆雷が投下されたが、シードラゴンは上手く逃げた。シードラゴンはしばらくして浮上し、18時58分にシャークとの交信を試みたが何事も起こらなかった。シャークは6時15分の交信の後、春風に撃沈されたと考えられた。 戦後の調査で、シードラゴンは一連の攻撃で大天丸と營口丸、それに貨客船黒龍丸(大阪商船、7,369トン)を撃沈したものと認定された。 10月25日夜には吹雪型駆逐艦と思しき艦艇に魚雷を発射したものの命中せず、10月26日にはルソン島に接近し、10月27日と28日には、遭難した味方パイロットの救出を試みた。10月29日、シードラゴンはミッドウェー島への帰還が命じられた。11月8日、シードラゴンは44日間の行動を終えてミッドウェー島に帰投した。
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第11の哨戒 1944年9月 - 11月
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「サーモン (SS-182)」の記事における「第11の哨戒 1944年9月 - 11月」の解説
9月24日、サーモンは11回目の哨戒でトリガーおよびスターレット (USS Sterlet, SS-392) とウルフパックを構成し南西諸島方面に向かった。10月30日、僚艦トリガーは都井岬沖で小沢治三郎中将率いる機動部隊本隊に対する補給部隊を発見し、タンカーたかね丸(日本海運、10,021トン)に魚雷を2本命中させた。たかね丸は航行不能に陥り、トリガーは爆雷攻撃を受けて援護を求めつつ退散した。次に攻撃をしたのがサーモンで、サーモンは魚雷を4本発射し、2本をたかね丸に命中させた。しかし、サーモンもまた護衛艦による激しい爆雷攻撃のため深く潜航することを強いられた。深度300フィート(90メートル)で水平となったが、損傷および追加の爆雷攻撃ですぐに500フィート(150メートル)まで潜航することとなった。漏水と深度の維持をコントロールできなくなり、ナウマン中佐はサーモンを浮上させて戦闘を行うことを決定した。 一方、現場でたかね丸乗員を収容していた第22号海防艦は、北緯30度25分 東経133度00分 / 北緯30.417度 東経133.000度 / 30.417; 133.000の地点で艦首方向に浮上潜水艦、すなわちサーモンを発見。全速で追いかけた。サーモンが15度傾いてエンジンも完全ではなかったにもかかわらず、過去にサム・ディーレイ艦長のハーダー (USS Harder, SS-257) を仕留めたことのある第22号海防艦は慎重で、状況を判断するまで短時間その距離を維持した。サーモンの乗員にとっては、艦の傾斜を修正し数カ所の損傷を修理するための貴重な時間稼ぎとなった。第22号海防艦からの報を受けて、第33号海防艦も助太刀で向かいつつあった。 23時ごろ、サーモンは一時の雨の中で反転し、4インチ砲や20ミリ機銃、その他保持している火器を持ち出した上で第22号海防艦との間を詰めていった。第22号海防艦も12センチ高角砲や25ミリ機銃を構えて接近していった。サーモンと第22号海防艦は500メートルもない至近距離で派手な砲撃戦、銃撃戦を展開。第22号海防艦の方が乾舷が高いので、よく被弾した。また、サーモンの20ミリ機銃と小口径機銃の射撃で第22号海防艦の乗員4名が戦死し、24名が負傷した。艦橋部分も激しく被弾し、指揮系統は大いに乱れた。この時になって第33号海防艦が追いつき、挟撃態勢に持ち込んだ。サーモンは第33号海防艦にも砲撃を行いつつ友軍潜水艦に対して戦闘位置を連絡し、スコールを利用して燃料を流しつつ戦場を離脱した。サーモンは4インチ砲弾57発、20ミリ機銃弾460発、小口径機銃弾7,300発を発射して応戦したが、その代わりに爆雷による損傷以外に、海防艦から砲撃で船体の117箇所の部位に少なからぬ損傷を負っていた。サーモンはスターレット、トリガーおよびシルバーサイズ (USS Silversides, SS-236) によって護衛されて後退していった。11月3日、サーモンは38日間の行動を終えてサイパン島に帰投。タナパグ湾(英語版)で潜水母艦フルトン (USS Fulton, AS-11) の横に停泊した。 トリガーとサーモンが魚雷を命中させたたかね丸は、最終的にスターレットが止めを刺した。第22号海防艦は艦首が大きく沈み、排水作業を行いつつ11月1日に呉に帰投。右舷側にはサーモンとの激戦の痕を示す無数の弾痕が残された。第22号海防艦はこの後も船団護衛などに従事しつつ、無事に終戦を迎えた。
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