第11の哨戒 1944年2月・喪失
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「トラウト (SS-202)」の記事における「第11の哨戒 1944年2月・喪失」の解説
2月8日、トラウトは11回目の哨戒で東シナ海に向かった。ミッドウェー島で燃料を補給し、16日に出航した。しかし、トラウトはこれを最後に消息を絶ち、帰投期日の4月7日になってもミッドウェー島に姿を見せず、4月11日に喪失が推定された。トラウトの全乗組員の他、潜水隊司令ハリー・E・ウッドワース中佐が行方不明となった。戦後、日本側の記録などを調べた結果、トラウトの最期は次のようなものだったと考えられた。 2月29日、トラウトが行動する海域の近くで哨戒中のロックが南西諸島付近を航行中にで日本の重要船団を発見した。この船団は、釜山からグアムへ第二十九師団(高品彪中将)の陸軍兵士を輸送する『松輸送』船団の内の一つであり、安芸丸(日本郵船、11,409トン)、東山丸(大阪商船、8,666トン)および崎戸丸(日本郵船、9,247トン)の3隻の優秀貨客船を前身とする陸軍輸送船が中心となり、朝霜、岸波、沖波の3隻の駆逐艦で構成されていた。ロックは夜間の2時49分頃に浮上して船団に接近したが、この時ロックの右斜め前方約6キロの地点にいた朝霜に察知され、ロックは照準することなく後部発射管から魚雷4本を放射状に発射した。その後ロックは朝霜の右舷側に移り、朝霜のサーチライトと12.7センチ砲の発射炎によって照らされながら潜航した。しかし、潜航しかけた時に砲弾が潜望鏡支柱に命中し、潜望鏡が昼間用・夜間用の両方とも破損した。またレーダーマストに浸水するなど大小さまざまな被害を受けていた。この後、4時間に及ぶ爆雷攻撃をしのいだロックは夜になって浮上し、船団発見の旨を報告した。この報告を受信して船団を攻撃したのがトラウトであった。 ロックが損傷してから半日後の夕方17時53分、トラウトは北緯22度40分 東経131度50分 / 北緯22.667度 東経131.833度 / 22.667; 131.833の地点で輸送船3隻に向けて魚雷を3本発射。朝霜がこれに気付いたものの、2本が崎戸丸に命中して崎戸丸は沈没した。もう1本は安芸丸に命中して航行不能に陥らせた。その後、撃破された安芸丸はその後8ノットの速力が出せるまでに回復した。17時55分、朝霜は自艦の左舷1,200メートルに潜望鏡を発見。17時57分、朝霜は60メートルに設定した12発の爆雷を投下。九三式水中探信儀を使用しさらに深い深度に設定した7発の爆雷を投下した。その結果、18時16分に海中の誘爆音を聴取した。水中探信儀を使用したものの、誘爆音を聴取したあとは反応はまったくなかった。これがトラウトの最期だった。 トラウトは太平洋戦線で戦没までに11度の哨戒を行い、2番目、3番目、および5番目の哨戒が成功とみなされた。これらの戦功によって11個の従軍星賞と三度の殊勲部隊賞を受賞した。
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