遭難者の救助
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/14 06:59 UTC 版)
漂流者の8〜9割以上ほとんが救助もしくは自力で岸にたどりついた。機雷の爆発音で気づいた佐波賀の漁民たちは所有していた漁船を出し、漂流中の遭難者を救助した。救助の順序は漁民たちは慣習により「女子供が先、兵隊はあとで」とされた。終戦後すぐで海軍側からは、一部の軍艦からカッターが救助に出せたのみであったという。遭難者への食事に関しては米軍の飢餓作戦のために起こった食料の極度の不足から、村落が与えられたのは、当時の貴重品であったふかしイモと、履物のみであったとされた。磯に揚げられた人は、やがて日本海軍の平海兵団に収容され、乾いた服と毛布を支給された。住民の話では、上陸後や沈没直後の時点に死者はほとんど無かったという。しかし、遺体はその後腐乱して海上に浮き上がり、収容された。遺体は、松ヶ崎の海兵団(現教育隊)で北側の空地で荼毘に付された。戦後の混乱から乗っていた遺骨の多くの引き取りはなされなかった。その後のサルベージ作業で沈没船から約三百七十柱(旧厚生省援護局は同一人のものと特定できない場合は骨一片でも一柱と数える)の遺骨が収集されたとされる。1970年、遺骨は厚生省から東京都目黒区の浄土宗祐天寺に移管された。現在280柱が同寺に安置され、毎年追悼会が営まれている。事件後の1954年から毎年追悼事業が営まれてきた。1978年8月にはさらに沈没事件から33回忌を機縁として沈没地点を見下ろせる山陰(下佐波賀地区)に「浮島丸殉難の碑」が舞鶴市と市民の寄付により建立された。当時全力をあげて生存者を救助し、その悲惨さを目の当たりにした舞鶴市民の心からの哀悼の碑としている。1994年から出港地の下北地方でも毎年追悼集会が開かれている。2012年には、大湊港桟橋跡に記念碑が建立された。
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