遭難直後の捜索
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 07:19 UTC 版)
「アメリア・イアハート」の記事における「遭難直後の捜索」の解説
アメリカ政府は、消息を絶ったイアハートとヌーナンの捜索に400万ドル(当時)を費やした。捜索隊はアメリカ海軍および沿岸警備隊、さらに隣接した地域を委任統治している日本の大日本帝国海軍の協力によって組織され、当時として考え得る全ての手段を講じた集中的な航空および海上探索を行った。アメリカ海軍は空母「レキシントン」および艦載機多数、戦艦「コロラド」、沿岸警備隊「イタスカ」等を派遣した。 当時、日本海軍は第十二戦隊(機雷敷設艦沖島、水上機母艦神威、第28駆逐隊〈朝凪、夕凪〉)により、南洋諸島の長期調査航海を実施した。7月2日当時の第十二戦隊は、サイパン島に停泊中だった。神威艦載機、特務艦「膠州」等が捜索に参加(膠州はパラオ諸島を出発し、7月6日にポナペ島着、7月9日同地発、7月13日にヤルート着)。それぞれ1週間程度をかけて総面積390,000平方キロを捜索したが何も見つからなかった。第十二戦隊の4隻は7月10日に伊勢湾へ帰投した。7月19日に日米とも捜索を打ち切った。 同日、「膠州」はヤルートを出発、ポナペを経てサイパンに向かった。その後もイアハート機の残骸や遺留品が日本委任統治領内の島に流れ着く可能性があったため、山本五十六海軍次官は出来るかぎり捜索に協力するよう指導した。しかし日米双方の航空基地として南洋群島をめぐる緊張は高まりつつあり、さらに1941年(昭和16年)12月8日に太平洋戦争が勃発し、両軍による調査や捜索は行われることが無かった。
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