甘粛省建設委員会への異動
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1974年9月15日、新華社通信が「黄河流域の青銅峡ダム発電所工事がほぼ完成した」という旨のニュースを配信した。813支局が進めていた八盤峡ダム発電所の工事も終盤に入り、翌年には竣工すると見られていた。このころの胡錦濤は、上司たちとの人間関係も会社での評判も良好であり、このままでいけば将来の昇進が期待されていた。しかし、813支局は水力発電所所属の土木工事会社であり、各地に転勤して工事を行う必要があるため、自分の家庭生活に大きな影響を与えることになることを胡錦濤は悩んでいた。813支局は甘粛省政府土木管理部門の建設委員会の官僚の接待に当たることがあったが、そのうち胡錦濤は建設委員会副主任の張延青と親しくなる。ある日、胡錦濤に付き添われてダム工事を視察した張延青は、胡錦濤と昼食を取っている最中に、ダム工事が終了した後の胡錦濤の予定を聞いた。未定であることを答えると、張延青は胡錦濤に対して「建設委員会に来て自分の秘書になる気はないか」と打診した。この申し出に胡錦濤は大いに喜び、その場で即答した。人事の手続きが難しいのではないかと心配する胡錦濤に対して、張延青は手続きのことは自分に任せるよう答えた。その後八盤峡ダムの工事現場に人事異動の辞令が届き、胡錦濤の甘粛省建設委員会への転勤が正式に決定する。こうして胡錦濤は甘粛省建設委員会に異動し、張延青の委員会主任室専属秘書として働くことになる。この転勤が胡錦濤の人生で最も重要な転換点と見られている。 張延青は山西省の出身で、共産党の古参幹部である。胡錦濤にとっては官途における最初の恩人であり、彼の口添えが無ければ転勤は無かっただろうと見られている。それゆえ、胡錦濤は張延青に絶えず恩義を感じており、毎年正月になれば張延青に電話をかけて新年の挨拶を述べ、甘粛省に出張する者があれば栄養剤や健康食品などの土産を託して届けさせている。 1974年8月、胡錦濤は八盤峡ダム発電所から甘粛省建設委員会に移り、張延青の秘書として働く。仕事場から30メートルほどのところにある職員用宿舎を借り、家族4人で2DKのアパートで暮らし始める。職場では上司に言われた仕事を黙々とこなした。報告書・挨拶文などの原稿作成が胡錦濤の主な仕事であった。 1975年、同委員会副主任に昇進する。ちょうどその頃失脚から返り咲いた鄧小平によって「より革命的で、より若く、より知識があり、より専門的な」次世代の指導者を育成することを目指すプログラムが実行され、それによって多くの有能な若手党員が見出された。同年、張延青は胡錦濤を半年間観察したのち、勤務態度がまじめで、上司に忠実で、同僚の評判もよい胡錦濤を、主任の単国棟に推薦し、幹部会議の討論を経て、設計管理字部長に任命した。このときの胡錦濤は33歳で、建設委員会ではもっとも若い次長となった。なお、後に中国の最高権力者の地位に就いた胡によって国務院総理に指名されることになる温家宝は、この当時、甘粛省地質局地質調査測量隊・思想政治課副主任を務めていた。当時の同僚によれば、胡錦濤は次長に昇進したのちも以前と変わらず仕事に精を出し、勤務時間を守り、同僚に愛想がよく、さわやかではきはきとした仕事ぶりで、中間管理職となったことを鼻にかけるような態度は少しも見せなかったという。次長に昇進した胡は、幹部チームを率いて蘭州市永登県六福郷へ赴き、農民たちに社会主義教育の宣伝活動を行った。胡錦濤らは政治思想教育のための資料を数多く用意してきたが、農民たちの関心事は、詩歌の朗読や理論よりも、少しでも多く食料を作り、腹いっぱい食べることであった。そのことを知った胡は、机上の空論の宣伝よりも、もっぱら生産力回復を第一義とする鄧小平の実務路線に従った。1975年5月29日、鄧小平は毛沢東の3項目、「ソ連反対主義への修正」、「安定団結」、「経済発展」の3つを各分野の指針とする指示を出し、経済発展を軌道に乗せようとする。胡錦濤は六福郷の社会主義教育プログラムの責任者として、ソビエト連邦の侵入に備えることの重要性を説いて政治理論書の学習を指示し、一方で幹部チームを率いて農作業・かんがい用水路の整備に力を入れて農民たちを食糧不足から脱却させようとした。この教育プログラムは半年にわたって行われ、リーダーを務めた胡は政治活動の経験を積む形となった。プログラム終了後、胡は設計管理部の指導管理に加わり始めた。 その後中国の各分野における経済活動が活発化したことで、甘粛省建設委員会も蘭州市のインフラ整備に力を入れ始める。甘粛省建設委員会は胡錦濤に対して蘭州市養鶏場、乳製品製造工場、青少年文化センターの建設工事の計画審査と基礎工事の現場総監督を任せた。胡錦濤は3つのプロジェクトの企画審査と建設用地の選定会議を開き、設計から建設用地の選定、基礎工事、建設施工の管理、完成後の検査までのすべての段階における責任者を定めて責任の所在を明確にした。各段階において工事のできばえに対する請負制を実施し、品質管理を厳格にし、建築物に欠陥を残さない措置を取った。3つの建設プロジェクトは順調に進行し、2年足らずで完成にこぎ着け、各施設とも使用開始が可能となった。1980年、胡錦濤は建設委員会次長から副主任に栄転し、副局長クラスの幹部となる。清華大学時代から胡錦濤の上司であり、胡耀邦のかつての部下であり、甘粛省党委員会副書記の劉冰という人物と胡は親密な間柄となった。胡錦濤は暇さえあれば劉冰を訪ね、仕事についての指示を仰いだ。 有能な若手党員の一人として、胡は甘粛省党委第一書記である宋平の推薦により、1980年に中国共産主義青年団の甘粛省委員会書記に就任した。かつてインフラ整備の建設工事を宋平が視察した際にその案内役を務めたのが胡錦濤であり、宋平は胡錦濤に対して好印象を抱いたという。
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