甘糟継成「北越日記」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/07 23:29 UTC 版)
・【甘糟継成「北越日記」5月21日】 若林と勘定頭頭取小林五兵衛が本陣に来て、この先(加茂)への前進に同意せず。若林は逆に本陣を更に後退させることを主張。 ・【甘糟継成「北越日記」5月22日】 若林と小林の行方知れず。そのまま国に逃げ帰ったとの説あり。 ・【甘糟継成「北越日記」5月24日】 若林は深く戦いを恐れ、総督色部長門に早く引き返すようにと勧めたが、色部がゆえなく退くことは諸藩の嘲りを受けると承知しなかったため、若林は大いに激し、米沢に走り帰り、帰路途中(関)に保管している鉄砲・弾薬を米沢に戻すよう命じたうえ、関まで出陣していた上杉主水を米沢に戻るよう勧めた。 ・【甘糟継成「北越日記」5月24日】(若林に)後続部隊の救援も、弾薬の補給も止められては、とても戦いは出来ない。 すみやかに米沢に使者をたて「若林は総督の命を守らず、ほしいままに逃げ軍機を誤り、先勢を棄殺しようとしている」と報告。 もともと米沢藩の越後出兵は越後の住民が会津藩に対しての反感が強く、米沢藩に救いを求めて来たので、その人心を収攬するためで、新政府軍と戦うためではないという大義名分があったが、現実に前線に立っている兵の感情や同盟軍他藩との関係から、若林の主張が受け入れられる状況ではなかった。
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