水戸藩・薩摩藩側とは? わかりやすく解説

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水戸藩・薩摩藩側

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 05:02 UTC 版)

桜田門外の変」の記事における「水戸藩・薩摩藩側」の解説

安政7年3月3日1860年3月24日)、稲田重蔵は、彦根藩士の河西左衛門から斬り倒され襲撃者側でただ一人戦闘中討ち死にしたその他の襲撃者らは直弼首級揚げたのを確認後、共に現場去って日比谷門へ向かった薩摩藩士である有村次左衛門戦闘首級取った深手負い直弼の首を手にし現場去りがけに、米沢藩邸前の東角で追い縋ってきた彦根藩士・小河原秀之丞より背後から斬りつけられた。広岡子之次郎らは負傷していたが、助太刀回ってこれを制し小河原止め刺した有村直弼首級を手に和田倉門抜けたが、辰ノ口で力尽き遠藤胤統遠藤但馬守)邸前で自決した広岡は、辰ノ口通り姫路藩酒井家の邸外まで辿り着いた所で力尽き自刃した。また山口辰之介と要人も、彦根藩士による反撃重傷負っていた。山口渕は和田倉門までたどり着かず馬場先門和田倉門の間の濠沿いにある八代洲川岸で、増山河内守邸の角を右へ曲がり織田兵部少輔邸の塀際で渕が山口介錯し、渕も自刃した。 佐野竹之介斎藤監物黒澤忠三郎蓮田一五郎の4名は、戦闘により負傷しながらも連れ立って移動し和田倉門前の老中脇坂安宅 (脇沢中大輔)邸へ『斬奸趣意書』を提出し自訴した。佐野竹之介は特に重傷であり、事件当日夕刻絶命した。4人は熊本藩細川家預けかえられた(死んだ佐野死体運ばれた)。斎藤監物重傷負っていたため、5日後の3月8日落命した。黒澤忠三郎重傷であったが、手当てにより命は取り留めた黒澤その後富山藩前田家預け替えられた後、4月21日三田藩九鬼家移され7月12日九鬼家病死した。蓮田一五郎は、細川家から、膳所藩本多家預けかえられた。蓮田には絵を描く才能があったため、細川邸にて事変詳細描いた取り調べの後、文久元年1861年7月26日伝馬町獄舎幕吏により斬首された。 大関和七郎森五六郎・杉山弥一郎・森山繁之介の4名は、熊本藩主細川斉護邸へ趣意書提出し自訴した。大関杉山負傷しており、森山戦闘参加した無傷であった大関和七郎は、富山藩前田家続いて豊岡藩京極家預け替えられた。森五六郎は、臼杵藩稲葉家、さらに大和小泉藩・片桐家預け替えられた。稲葉家家臣らへ語った記録は、『森五六三郎物語』と呼ばれている。杉山弥一郎は、村松藩堀家預け替えられた。森山繁之介は、一関藩田村家、さらに足利藩戸田家移された。大関杉山森山の4名とも、取り調べの後、文久元年1861年7月26日伝馬町獄舎幕吏により斬首された。 かくして襲撃戦闘参加した16名のうち,1名が闘死、4名が自刃、8名が自訴した。残る3名(広木之介・増子金八海後磋磯之介)は大きな負傷なく現場脱し戦闘不参加関鉄之介岡部三十郎協力者とともに計画通り京を目指した。 しかし、幕府探索の手拡がり襲撃計画首謀者である水戸浪士金子孫二郎薩摩浪士有村雄助水戸浪士佐藤鉄三郎と共に京へ向かったが、途上3月9日伊勢四日市旅籠薩摩藩兵により捕縛された。金子孫二郎佐藤鉄三郎伏見奉行所に引き渡されて、24日江戸へ護送された。取り調べの後、金子文久元年1861年7月26日伝馬町獄舎幕吏により斬首された。佐藤追放となった有村雄助は、3月9日捕縛された後、薩摩藩士の関与隠したい藩の思惑のため、一時大坂薩摩藩邸に移され薩摩護送された。3月24日幕府探索薩摩迫ったため、藩命によって自刃させられた。先に京に入っていた水戸浪士高橋多一郎と庄左衛門親子は、3月24日大坂にいたところを幕吏追捕を受け、四天王寺境内逃げ込み、その寺役人宅にて自刃した。大坂薩摩藩との連絡であった水戸浪士川崎孫四郎も、3月23日探索追い詰められ自刃し、翌日死去した襲撃者のうち戦闘不参加で、検視見届役として参加していた岡部三十郎は、事件後、関鉄之介らと大坂向かったが、薩摩藩の率兵上京計画不可能と知って水戸帰還し久慈郡袋田水戸城下辺りへ潜伏した。追手逃れ、再び江戸へ出たが、文久元年1861年2月江戸吉原捕まった文久元年1861年7月26日自訴した面々金子孫二郎とともに伝馬町獄舎幕吏により斬首された。 襲撃者一人広木之介は、かねてから計画通り京へ向かうが、加賀国より先は幕府厳重な警戒で叶わなかった。広木は一旦水戸帰郷し数日後再び京を目指し出発するが、幕府詮議厳しく能登国本住寺潜伏した後、越後国佐渡島越中国経た越後国新潟でたまたま居合わせた水戸藩士後藤哲之介は広木助け旅費用意した上で広木逃がした文久元年1861年)、後藤幕吏捕らわれた所持品から広木の印が見つかった上、取り調べ時に広木之介であると供述したため、文久2年1862年5月江戸へ送られ伝馬町監獄繋がれた。しかし広木之介を名乗った後藤尋問もなく、絶食した後藤文久2年1862年9月13日に息絶えた一方広木相模国鎌倉上行寺へ赴き剃髪したが、襲撃から3年目の日にあたる文久2年1862年3月3日上行寺墓地で切腹した。また、広木直弼首級水戸持ち帰った、という伝承がある。 襲撃現場総指揮である関鉄之介は、3月5日江戸出発して京へ向かい中山道から大坂入った大坂辿り着いた関は高橋多一郎らの死と、薩摩藩側の率兵上京計画果たされないことを知った以後、彼は 山陰山陽四国九州西国各地転々とした。関は薩摩藩へも入ろうとしたが、既に島津久光の命で薩摩の全関所閉ざされていたため、薩摩入りできなかった。関はやがて水戸藩領へ戻ることを決め万延元年1860年7月水戸藩久慈郡袋田村入り、この地の豪農かねてから懇意郷士格・桜岡源次衛門に匿われた。桜岡は、かつて藩命で関が担当した蒟蒻会所の裏部屋などを、彼の隠れ家提供した文久元年1861年7月、関は密かに水戸高橋多一郎の家を訪ね、さらに息子密かに会い行った。関は再び袋田向かったが、これを期に水戸から探索の足が着いたその後持病悪化探索逃れ諸国潜伏同年10月、関は水戸藩士によって越後湯沢温泉捕縛され同年11月水戸護送されて、城下赤沼牢に投獄された。文久2年1862年4月5日江戸護送され小伝馬町の牢へ入った。関の獄中詩集『遣悶集』がある。また、襲撃前の潜伏時に関が身を寄せた芸妓滝本いのは、幕吏捕らわれて尋問により獄死しており、関はここでそれを知った同年5月11日、関はこの小伝馬町の牢において斬首された。 他の関与者多く自首捕縛された後に刑死獄死した。 襲撃者のうち、増子金八海後磋磯之介潜伏して明治時代まで生き延びた。増子は腕や肩に傷を負った浅手だったため、現場脱して京へ向かった。しかし、周囲警戒が厳重で叶わず帰郷その後商人扮して捕吏の手逃れ水戸藩から北の各地潜伏した。明治時代となってから石塚村へ戻るが、襲撃事件について沈黙し語ろうとしなかった。増子は同志冥福祈りながら読書狩猟余生過ごし明治14年1881年)に病没した。海後は、指を切り落とされながらも現場脱し水戸藩領の小田野にある親戚高野家などへ隠れたその後、海後は京へ向かうため越後国向かったが、文久3年1863年)に帰郷元治元年1864年)の天狗党の乱には変名天狗党参加関宿藩預けられたが、ここも無事脱出した明治維新後、旧水戸藩士身分復帰茨城県庁警視庁等勤務退職後の明治36年1903年自宅没した。海後は事件前色々な申し合わせ一切口外しないとの固い約束があり、一人生き残り語って約束を破るようで申し訳ないからと生前口を閉ざしていた。海後の遺稿襲撃一部始終伝える『春雪偉談』や『潜居覚書』がある。 襲撃現場で討ち死にした稲田、および自刃した有村広岡渕、山口遺骸小塚原刑場隣接する回向院運ばれ埋葬された。また、7月26日に、処刑され蓮田大関杉山森山金子岡部の7人も回向院埋葬された。文久の改革で、上記浪士遺骸故郷帰葬許されて、水戸常盤共有墓地他に改葬された。

※この「水戸藩・薩摩藩側」の解説は、「桜田門外の変」の解説の一部です。
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