水戸藩・薩摩藩側
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安政7年3月3日(1860年3月24日)、稲田重蔵は、彦根藩士の河西忠左衛門から斬り倒され、襲撃者側でただ一人戦闘中討ち死にした。その他の襲撃者らは直弼の首級を揚げたのを確認後、共に現場を去って日比谷門へ向かった。薩摩藩士である有村次左衛門は戦闘で首級を取ったが深手を負い、直弼の首を手にし現場を去りがけに、米沢藩邸前の東角で追い縋ってきた彦根藩士・小河原秀之丞より背後から斬りつけられた。広岡子之次郎らは負傷していたが、助太刀に回ってこれを制し小河原に止めを刺した。有村は直弼の首級を手に和田倉門を抜けたが、辰ノ口で力尽き遠藤胤統(遠藤但馬守)邸前で自決した。広岡は、辰ノ口を通り姫路藩・酒井家の邸外まで辿り着いた所で力尽き、自刃した。また山口辰之介と鯉渕要人も、彦根藩士による反撃で重傷を負っていた。山口と鯉渕は和田倉門までたどり着かず、馬場先門と和田倉門の間の濠沿いにある八代洲川岸で、増山河内守邸の角を右へ曲がり、織田兵部少輔邸の塀際で鯉渕が山口を介錯し、鯉渕も自刃した。 佐野竹之介・斎藤監物・黒澤忠三郎・蓮田一五郎の4名は、戦闘により負傷しながらも連れ立って移動し、和田倉門前の老中・脇坂安宅 (脇沢中務大輔)邸へ『斬奸趣意書』を提出し自訴した。佐野竹之介は特に重傷であり、事件当日の夕刻に絶命した。4人は熊本藩・細川家へ預けかえられた(死んだ佐野も死体が運ばれた)。斎藤監物も重傷を負っていたため、5日後の3月8日に落命した。黒澤忠三郎も重傷であったが、手当てにより命は取り留めた。黒澤はその後、富山藩・前田家へ預け替えられた後、4月21日に三田藩・九鬼家へ移され、7月12日、九鬼家で病死した。蓮田一五郎は、細川家から、膳所藩・本多家へ預けかえられた。蓮田には絵を描く才能があったため、細川邸にて事変の詳細を描いた。取り調べの後、文久元年(1861年)7月26日、伝馬町獄舎で幕吏により斬首された。 大関和七郎・森五六郎・杉山弥一郎・森山繁之介の4名は、熊本藩主・細川斉護邸へ趣意書を提出し自訴した。大関・森・杉山は負傷しており、森山は戦闘に参加したが無傷であった。大関和七郎は、富山藩・前田家、続いて豊岡藩・京極家へ預け替えられた。森五六郎は、臼杵藩・稲葉家、さらに大和小泉藩・片桐家へ預け替えられた。森が稲葉家家臣らへ語った記録は、『森五六三郎物語』と呼ばれている。杉山弥一郎は、村松藩・堀家に預け替えられた。森山繁之介は、一関藩・田村家、さらに足利藩・戸田家へ移された。大関・森・杉山・森山の4名とも、取り調べの後、文久元年(1861年)7月26日、伝馬町獄舎で幕吏により斬首された。 かくして襲撃の戦闘に参加した16名のうち,1名が闘死、4名が自刃、8名が自訴した。残る3名(広木松之介・増子金八・海後磋磯之介)は大きな負傷なく現場を脱し、戦闘不参加の関鉄之介・岡部三十郎や協力者とともに、計画通り京を目指した。 しかし、幕府の探索の手も拡がり、襲撃計画の首謀者である水戸浪士・金子孫二郎は薩摩浪士・有村雄助、水戸浪士・佐藤鉄三郎らと共に京へ向かったが、途上、3月9日に伊勢・四日市の旅籠で薩摩藩兵により捕縛された。金子孫二郎と佐藤鉄三郎は伏見奉行所に引き渡されて、24日江戸へ護送された。取り調べの後、金子は文久元年(1861年)7月26日、伝馬町獄舎で幕吏により斬首された。佐藤は追放となった。有村雄助は、3月9日捕縛された後、薩摩藩士の関与を隠したい藩の思惑のため、一時大坂の薩摩藩邸に移され、薩摩へ護送された。3月24日、幕府の探索が薩摩に迫ったため、藩命によって自刃させられた。先に京に入っていた水戸浪士・高橋多一郎と庄左衛門親子は、3月24日、大坂にいたところを幕吏の追捕を受け、四天王寺境内へ逃げ込み、その寺役人宅にて自刃した。大坂で薩摩藩との連絡役であった水戸浪士・川崎孫四郎も、3月23日探索に追い詰められて自刃し、翌日死去した。 襲撃者のうち戦闘不参加で、検視見届役として参加していた岡部三十郎は、事件後、関鉄之介らと大坂へ向かったが、薩摩藩の率兵上京計画が不可能と知って水戸へ帰還し、久慈郡袋田や水戸城下辺りへ潜伏した。追手を逃れ、再び江戸へ出たが、文久元年(1861年)2月、江戸吉原で捕まった。文久元年(1861年)7月26日、自訴した面々や金子孫二郎とともに、伝馬町獄舎で幕吏により斬首された。 襲撃者の一人、広木松之介は、かねてからの計画通り京へ向かうが、加賀国より先は幕府の厳重な警戒で叶わなかった。広木は一旦水戸に帰郷し、数日後再び京を目指して出発するが、幕府の詮議が厳しく、能登国本住寺に潜伏した後、越後国佐渡島、越中国を経た。越後国新潟でたまたま居合わせた水戸藩士・後藤哲之介は広木を助け、旅費を用意した上で広木を逃がした。文久元年(1861年)、後藤は幕吏に捕らわれた。所持品から広木の印が見つかった上、取り調べ時に広木松之介であると供述したため、文久2年(1862年)5月江戸へ送られ、伝馬町の監獄に繋がれた。しかし広木松之介を名乗った後藤へ尋問もなく、絶食した後藤は文久2年(1862年)9月13日に息絶えた。一方、広木は相模国鎌倉・上行寺へ赴き剃髪したが、襲撃から3年目の日にあたる文久2年(1862年)3月3日、上行寺の墓地で切腹した。また、広木が直弼の首級を水戸へ持ち帰った、という伝承がある。 襲撃の現場総指揮である関鉄之介は、3月5日に江戸を出発して京へ向かい、中山道から大坂へ入った。大坂へ辿り着いた関は高橋多一郎らの死と、薩摩藩側の率兵上京計画が果たされないことを知った。以後、彼は 山陰、山陽、四国、九州と西国各地を転々とした。関は薩摩藩へも入ろうとしたが、既に島津久光の命で薩摩の全関所が閉ざされていたため、薩摩入りできなかった。関はやがて水戸藩領へ戻ることを決め、万延元年(1860年)7月、水戸藩久慈郡袋田村に入り、この地の豪農でかねてから懇意の郷士格・桜岡源次衛門に匿われた。桜岡は、かつて藩命で関が担当した蒟蒻会所の裏部屋などを、彼の隠れ家に提供した。文久元年(1861年)7月、関は密かに水戸の高橋多一郎の家を訪ね、さらに息子へ密かに会いに行った。関は再び袋田へ向かったが、これを期に水戸から探索の足が着いた。その後、持病の悪化と探索を逃れ、諸国に潜伏。同年10月、関は水戸藩士によって越後の湯沢温泉で捕縛され、同年11月に水戸へ護送されて、城下の赤沼牢に投獄された。文久2年(1862年)4月5日、江戸に護送され、小伝馬町の牢へ入った。関の獄中の詩集『遣悶集』がある。また、襲撃前の潜伏時に関が身を寄せた芸妓・滝本いのは、幕吏に捕らわれて尋問により獄死しており、関はここでそれを知った。同年5月11日、関はこの小伝馬町の牢において斬首された。 他の関与者も多くは自首や捕縛された後に刑死、獄死した。 襲撃者のうち、増子金八と海後磋磯之介は潜伏して明治時代まで生き延びた。増子は腕や肩に傷を負ったが浅手だったため、現場を脱して京へ向かった。しかし、周囲の警戒が厳重で叶わず帰郷。その後商人に扮して捕吏の手を逃れ、水戸藩から北の各地に潜伏した。明治時代となってから石塚村へ戻るが、襲撃事件について沈黙し、語ろうとしなかった。増子は同志の冥福を祈りながら読書と狩猟の余生を過ごし、明治14年(1881年)に病没した。海後は、指を切り落とされながらも現場を脱し、水戸藩領の小田野村にある親戚の高野家などへ隠れた。その後、海後は京へ向かうため越後国へ向かったが、文久3年(1863年)に帰郷。元治元年(1864年)の天狗党の乱には変名で天狗党へ参加、関宿藩に預けられたが、ここも無事脱出した。明治維新後、旧水戸藩士身分に復帰、茨城県庁や警視庁等へ勤務、退職後の明治36年(1903年)自宅で没した。海後は事件前の色々な申し合わせは一切口外しないとの固い約束があり、一人の生き残りが語っては約束を破るようで申し訳ないからと生前、口を閉ざしていた。海後の遺稿に襲撃の一部始終を伝える『春雪偉談』や『潜居中覚書』がある。 襲撃現場で、討ち死にした稲田、および自刃した有村、広岡、鯉渕、山口の遺骸は小塚原刑場に隣接する回向院に運ばれ埋葬された。また、7月26日に、処刑された蓮田、大関、森、杉山、森山、金子、岡部の7人も回向院に埋葬された。文久の改革で、上記浪士の遺骸は故郷に帰葬を許されて、水戸の常盤共有墓地他に改葬された。
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