水戸藩士 和知氏
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和知氏の一部は佐竹氏移封後、水戸徳川家に仕えた。文久3年(1863年)には幕末の水戸藩士・和知総次郎が攘夷宿願のため、長岡勢残党として長州藩士・伊藤博文と共に上洛した水戸浪士の一員として、薩摩藩邸に逃げ込んだとの記録もあり、また、慶応元年(1865年)6月18日には天狗党の乱で天狗党勢として戦った義民・和知亀之助が斬られている。 国立国会図書館蔵『茨城人物評伝』『常陽人物寸観』に旧水戸藩士の和知忠順についての記述、茨城県立石岡第一高等学校に同名の人物について記述がある。水戸市の吉田神社の石碑碑文(昭和17年2月11日)に和知忠禮の名、戦前、水戸市で設立された白牙会の特別展が茨城県つくば美術館で開かれた時の記事に、和知忠恒の名、昭和39年4月2日の衆議院会議録に水戸市議会議長和知忠雄の名があり、いずれも、水戸市に関係し、忠の通字がある。
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