旧訳における削除と復活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/07 10:27 UTC 版)
「谷崎潤一郎訳源氏物語」の記事における「旧訳における削除と復活」の解説
当時『源氏物語』は「不敬の書」と呼ばれており、『源氏物語』に関する多くの出版物が実際に規制の対象となっていたために、この谷崎による現代語訳源氏物語も発禁などの処分を受ける可能性があった。この谷崎源氏は「全巻一字も伏字無し」とうたわれていたが、実際には問題とされそうな記述を伏字ではなく内容ごと除去することによって発売禁止という事態を避ける方策がとられていた。削除された記述の分量について、谷崎は旧訳の序文において「分量から云えば三千何百枚の中の一割にも五分にも達しない」と5%以下であると述べているが、実際に調査するとさらに少なく全体の約2%程度であるとされる。このような作業のためこの旧訳は、当時国語学・国文学の最高権威であり国体明徴派として当局から好意的に見られていた山田孝雄の校閲を受けて成立している。この旧訳の表紙には、「谷崎潤一郎訳」と同じ大きさで「山田孝雄閲」と記されており、山田がこの翻訳に果たした役割の大きさを見て取ることが出来る。山田は谷崎による『源氏物語』翻訳の校閲を引き受けるにあたり、「以下の三つの記述を源氏物語の翻訳から削除すること」という条件を示され、谷崎はこれを了解したとされる。 光源氏が皇后と不義密通をしたこと 不義密通によって生まれた子が天皇に即位したこと 自身の子が天皇に即位したことによって臣籍降下した光源氏が准上皇としての待遇を受けたこと 上記の方針の結果、具体的には以下のような場面が削除されている 光源氏が藤壺のもとを訪れ、密通や冷泉帝懐胎について語る場面(若紫) 冷泉帝の誕生に伴う光源氏や藤壺の苦悩を描く場面(紅葉賀) 桐壺帝の死後、光源氏が藤壷に再度の密通を迫る場面(賢木) 冷泉帝の即位に際して光源氏が感慨を抱く場面(澪標) 冷泉帝が自身の出生の秘密を知り、光源氏と対面して譲位を申し出る場面(薄雲) 死後の藤壺が光源氏の夢枕に立つ場面(朝顔) 柏木と女三宮の密通を知って、自身の密通を思い出す場面(若菜下) このとき山田孝雄が谷崎に示したとされる3項目は、『源氏物語』を教科書から排除すべきであると主張した橘純一の「源氏物語は大不敬の書である」によって示された3項目と同じであり、当時の国粋主義的な人物たちの間で共通認識として『源氏物語』において特に問題であるとされていた部分であると考えられる。 この削除について、谷崎自身は当時旧訳の序文において「時節柄不適切な記述は除去した」が、除去したのは「わずかな部分であってこの部分を取り除いても筋に影響を与えることはない。」と説明していたが、岡崎慈恵からは「長い源氏物語の注釈・享受の歴史の中でいろいろな観点から源氏物語やその作者である紫式部に批判を加えた者はいたが、自身が見て不都合と思われる記述を取り除くようなことを行った者はいなかった」し、また「除去したのはわずかな部分ともいえないし、源氏物語の理解に何の影響もないとはいえない」といった批判も受けていた。後に谷崎の新訳に関わることになる玉上琢弥は、この谷崎の言葉について「何と白々しい」と感じ、谷崎訳について「紐解くこともしなかった。」と回想している。 谷崎は戦後、1949年(昭和24年)10月に刊行された『中央公論』文芸特集第1号において、『藤壺 「賢木」の巻補追』を発表し、旧訳で省略した「賢木」の巻の一部を補筆した。この作品は一つの独立した形式の作品ではなく、旧訳の「第4巻第119頁第1行から第3行の省略されている部分に代わるものである」という作者記が付されており、「旧訳の賢木巻第119頁に続く」という文言で終わるという、旧訳の中にはめ込むという形をとった作品である。 旧訳において行われた削除について、戦後になって谷崎自身は新訳の序文において「何分にも頑迷固陋な軍国主義者の跋扈していた時代であったので(中略)分からずやの軍人共の忌避に触れないようにするため、最小限度において原作の筋を歪め、削り、ずらし、ぼかし、などせざるを得なかった」と説明している。これらの「削除」は、かつては谷崎の山田孝雄追悼文の記述 などから全て山田の指示によるものであると考えられてきたが、多数の「削る」との書き込みのある、現在富山市立図書館山田孝雄文庫に所蔵されている山田孝雄旧蔵書『定本源氏物語新解』(金子元臣著)が詳細に調査され、削除された部分のうち、山田が削除を指示した部分は約半分に過ぎないことが明らかになった。これにより全体の削除のうち、少なからぬ部分は山田の指示以前の谷崎自身の判断によるものであるとの説が出されている。 また大津直子によって行われた、旧訳と新訳の比較による旧訳における削除個所などの調査においても、旧訳で削除されていたが新訳で復活したと見られる473か所のうち、谷崎の記述にある「禁忌三箇条」に触れたために削除されたと見られるものは、光源氏と藤壺との密通に関わる記述64か所、冷泉帝の出生に関わる記述23か所、光源氏に准太上天皇の待遇を授けることに関わる記述20か所の計107か所に過ぎず、逆に「禁忌三箇条」に触れると考えられるにも拘らず削除されていない記述も存在することが確認出来るなど、何らかの「禁忌三箇条」とは異なる削除の基準が存在するのではないかとしている。 谷崎潤一郎と中央公論社の間でやりとりされていた手紙によると、当初は谷崎と中央公論社の双方とも、最も発禁を受ける原因となる可能性の高い個所として、天皇・皇室関係の場所ではなく「空蝉」巻を想定しており、谷崎は「この部分を先に訳して当局に見せてもよい」などとしていた。これは、この前年に『源氏物語』を原作とした演劇が上演禁止となった際、上演が禁止された原因として「空蝉」巻における光源氏と人妻である空蝉の不倫の記述が、当時は刑法上の罪であった姦通罪を犯す場面であるとされたためであると考えられる。 なお、実際には官憲による発禁処置は行われなかったものの、日本社が1939年(昭和14年)2月1日に「源氏物語俗訳禁止に努力する事」を議決する など一部の国粋主義的団体の間では『源氏物語』の口語訳に対する反対の動きがあり、日本社の指導的立場にあった元大臣の小川平吉が同年2月6日に首相秘書太田耕造に、さらに2月17日には平沼騏一郎首相自身に対して「源氏物語翻訳発禁の事」を語るなど、政府当局に対する働きかけを行う運動が存在したことが確認出来る。
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