日本軍の王宮占領・日清開戦
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「日清戦争」の記事における「日本軍の王宮占領・日清開戦」の解説
朝鮮は日清両軍の撤兵を要請したものの、両軍とも受け入れなかった。6月12日、「京城目下ノ形勢ニテハ、過多ノ兵士進入ニ対スル正当ノ理由ナキヲ恐ル」と打電してくる大鳥公使に、なんらかの積極的な方策を与えようとした陸奥は、伊藤首相と協議した。その結果、15日の閣議に伊藤は1案を提出した。1)朝鮮の内政改革を日清共同で進める、2) それを清が拒否すれば日本単独で指導する方針を閣議決定した。出兵の目的は当初の「公使館と居留民保護」から「朝鮮の国政改革」のための圧力に変更された。当時、解散総選挙に追い込まれていた伊藤内閣は国内の対外強硬論を無視できず、成果のないまま朝鮮から撤兵させることが難しい状況にあった。21日、清国は日本の提案を拒否し、「事態が平静に帰した以上、あくまで撤兵が先決である。清国は朝鮮の内政に干渉する気はない。まして朝鮮を独立国と称している日本に内政干渉の権利はない」と反駁した。日本側はこの清国の拒絶を受けて、伊藤内閣と参謀本部・海軍軍令部の合同会議で、さきに大鳥公使の要請により仁川にとどまっていた混成旅団残部の輸送再開を決定し、23日に京城へ到着した。同日、清の駐日公使に内政改革の協定提案が送付された(第一次絶交書)。27日、出発を延期していた混成旅団の後続部隊が8隻の輸送船をつらねて仁川にはいり、翌日上陸した。日本軍はこれで牙山の清国軍の3倍に達したとみられた。27日、陸奥、「今日ノ形勢ニテハ行掛上開戦ハ避クベカラズ。依テ曲ヲ我ニ負ハザル限リハ、如何ナル手段ニテモ執リ、開戦ノ口実ヲ作ルベシ」と訓令。まさに開戦直前の状況になった。 しかし28日、条約改正交渉中のイギリス外相が調停に乗り出す動きを見せた。更に30日、ロシア公使ヒトロウォ(ロシア語版)は陸奥と会談、「ロシア政府は、日本が朝鮮政府の日清両国の撤兵という希望をうけいれるよう勧告し、かつ日本が清国と同時撤兵をうけいれないならば、日本政府は重大な責めを負うことになる旨忠告する」と申し入れた。これで日本側の開戦気運には一気にブレーキがかかった。7月2日、陸奥はヒトロウォにつぎのように回答した。「日本政府は、東学反乱の原因はのぞかれていないし、反乱そのものもなおまったく跡を絶つにいたっていないのではないかと考える。日本政府は侵略の意思はないし、反乱再発のおそれがなくなれば撤兵する」。7月9日清の総理衙門総領大臣(外務大臣に相当)慶親王が、「日本の撤兵」が前提としてイギリスの調停案を拒絶した。10日、ドイツとの対立を重要視していたロシア本国政府は、これ以上朝鮮問題に深入りすることを禁じた。同日、駐露公使西徳二郎より、これ以上ロシアが干渉しない、との情報が外務省にとどいた。11日、伊藤内閣は清の調停拒絶を非難するとともに、清との国交断絶を表明する「第二次絶交書」を閣議決定した。12日、陸奥、大鳥公使に「今ハ断然タル処置ヲ施スノ必要アリ。故ニ閣下ハ克ク注意シテ、世上ノ非難ヲ来サザル様口実ヲ撰ビ、之ヲ以テ実際運動ヲ初ムベシ」と訓令。14日、日本の「第二次絶交書」に光緒帝が激怒し、帝の開戦意思が李鴻章(天津市)に打電された。15日、李は牙山の清軍に平壌への海路撤退を命じた。18日、海路撤退が困難なため、増援を要求してきた牙山の清軍に対し、2,300人を急派することとした(豊島沖海戦の発端)。なお16日、懸案の日英通商航海条約が調印され(ただし悲願の一つ「領事裁判権撤廃」を達成したものの、8月27日の勅令による批准公布まで発表が伏せられた)、伊藤内閣にとって開戦の大きな障害がなくなった。 7月20日午後、大島公使は朝鮮政府に対して、1)清国の宗主権をみとめる中朝商民水陸貿易章程の廃棄、2)属邦保護を名目として朝鮮の「自主独立を侵害」する清軍の撤退について、22日までに回答するよう申し入れた。この申し入れには、朝鮮が清軍を退けられないのであれば日本が代わって駆逐する、との含意があった。22日夜半、朝鮮政府は、1)国内の改革は自主的に行う、2)乱は収まったので日清両軍は撤兵することを回答した。7月23日午前2時、日本軍混成第九旅団(歩兵四箇大隊など)が漢城に向け進軍を開始。朝鮮王朝の臣下は多くが逃走し、国王の高宗は身を潜めていたところを日本軍に保護された。大鳥は宮廷に参内して、高宗から「(国王である自分は)日本の改革案に賛同していたが、袁世凱の意向を受けた閔氏一族によって阻まれていた」と釈明し、改革を実現するために興宣大院君に国政と改革の全権を委任すること提案に同意した。同日のうちに大院君は景福宮に入って復権を果たしたが、老齢の興宣大院君は時勢に疎く政務の渋滞が見られたため、日本は金弘集への実権移譲を求め、大院君も了承した。日本政府は朝鮮政府に対して牙山に駐屯する清軍を撤退させることを要請を行ったが、朝鮮王朝は清国の報復に怯えて清国との絶縁などの日本の要請を拒み続けており、大鳥圭介の強硬な態度に屈して日本の要請に応じたが、その内容は大鳥を落胆させる消極的なものであった。しかしながら、清軍を朝鮮から退去させるために日本軍が攻撃する名分を得ることができたため、日本は戦争の開戦準備を始める。2日後の25日に豊島沖海戦が、29日に成歓の戦いが行われた後、8月1日に日清両国が宣戦布告をした。 なお後日、開戦前の状況について陸奥宗光は、次のように回想した。 外交にありては被動者〔受け身〕たるの地位を取り、軍事にありては常に機先を制せむ。 — 『蹇蹇録』 もっとも、一連の開戦工作について明治天皇は、「朕の戦争に非ず」と漏らしたと伝えられている(しかし広島大本営で精勤し、後年その頃を懐かしんだ)。また、開戦前夜の海軍大臣西郷従道海軍中将について次のように伝えられている。 北洋艦隊の優勢なるを憚(はばか)るが為に躊躇(ちゅうちょ)したり。 — 外務次官林董の回想録『後は昔の記』
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