日本における皇帝号の使用史とは? わかりやすく解説

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日本における皇帝号の使用史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 03:16 UTC 版)

皇帝」の記事における「日本における皇帝号の使用史」の解説

古代日本は、「天皇」号を和名の君主号すめらみこと」に当てた歴史学者の間では、「天皇」という称号出現7世紀後半天武天皇時代からであり、道教などの文献から採用したという説が通説であるが、5世紀頃から「天王」号を用いており、「王」を「皇」と漢字改めたという説もある。 701年大宝律令儀制令公式令において、「天子」および「天皇」称号とともに、「華夷」に対す称号として「皇帝」という称号規定されている。「華夷の意味については、「内国および諸外国」と解する説と「中国その他の諸外国」と解する説が対立していた。実際律令制定した文武天皇期に新羅国王に対して出され国書「天皇」号が使用され事例がある。また『古事記』『日本書紀』においては天皇命令である「みことのり」に「詔」や「勅」の漢字あてられているが、これは中国において皇帝のものにしかあてられない漢字である。また自称として「朕」を用い正妻称号は「皇后」であるなど、中国皇帝と同じ用語を用いた天皇すめらみこと)と異な用法での尊号としては、758年淳仁天皇即位した際、譲位した孝謙天皇に「宝字称徳孝謙皇帝」、孝謙の父聖武天皇に「勝宝感神聖武皇帝」の尊号贈られている。また、翌年には淳仁天皇の父である舎人親王が「崇道尽敬皇帝」と追号されている。「文武天皇もんむてんのう)」といった今日使われている漢風諡号は、聖武および孝謙称徳)を除き8世紀後半淡海三船が撰んだことに始まるため、その直後完成した『続日本紀』では原則として巻名天皇和風諡号用いられているが、孝謙天皇のみ巻第十八から巻第二十まで「宝字称徳孝謙皇帝」の漢風尊号記載されている点で特異である。なお、重祚した巻第二十六から巻第三十では巻名に「高野天皇(たかののすめらみこと)」の和風の号が用いられている(重祚後の漢風諡号称徳天皇)。 近世以降西洋においては日本に関する最大情報源であるエンゲルベルト・ケンペル著の『日本誌』において、徳川将軍は「世俗的皇帝」、天皇は「聖職的皇帝」(教皇のようなもの)と記述され両者は共に皇帝と見なされていた。その一年前出版された『ガリバー旅行記』においても、主人公ガリバーが「江戸で日本の皇帝謁見した」と記載されている。 安政3年1854年)の日米和親条約では条約締結する日本の代表、すなわち徳川将軍を指す言葉として「the August Sovereign of Japan」としている。これは大清帝国皇帝を指す「the August Sovereign of Ta-Tsing Empire」と同じ用法であり、アメリカ側将軍中華皇帝同様のものと認識していた。しかし日本の政治体制知られるようになった安政5年1858年以降徳川将軍称していた外交上の称号日本国大君」から「タイクンTycoon)」と表記するようになった一方で天皇は「ミカドMikado)」「ダイリ(Dairi)」、「テンノー(Tenno)」などと表記されていた。 慶応4年1月15日1868年)、新政府外交権掌握すると、兵庫港各国外交団「天皇」号を用いるよう伝達し外交団もこれに従った。しかし外国君主対する「国王」号の使用が、外交団から反発を受け、「皇帝」号を使用するよう要求された。日本は「皇帝」は中国(清)の号であるから穏当ではないとし、各国言語での呼び方そのままカタカナ表記する方針提案したが、各国外交団はあくまで「皇帝」の使用求めたこのままでは国家対等原則から外国君主に対して「天皇」号を用いなければならない事態陥る可能性もあった。結局明治3年1870年8月の「外交書法」の制定で、日本の天皇は「日本国大天皇」とし、諸外国君主は「大皇帝」と表記するよう定められた。 ウィキソース締盟国君称号公文ニハ総テ皇帝ト称シ共和政治ノ国ハ大統領ト称セシムの原文あります明治7年1874年7月25日太政官達98号この方針は確認され条約締結行った君主国君主全て国名は「○○王国であっても)「皇帝」と呼称することが法制化された。ただし実際にはこの措置王国限られルクセンブルク大公モンテネグロ公、ブルガリア公モナコ公等公国君主に対しては「大公もしくは「公」と呼称されている。 ただし李氏朝鮮との関係では、朝鮮を「自主ノ邦」としながらも、冊封関係を否定することを恐れていた朝鮮側考慮し、「君主」や「国王」の称号用いながらも、「陛下」や「勅」など皇帝同様の用語使用していた。日清戦争後朝鮮国号大韓改め皇帝称するうになると「皇帝」の称号正式に使われるようになった。 しかし明治4年に清と締結された「日清修好条規」では両国君主称号表記されていない。これは清側が天皇号皇帝すら尊崇する三皇五帝一つ天皇氏」と同一のものであるから、君主号とは認められない難色示したためであった明治6年1月1873年)頃から次第外交文書で「皇帝」の使用一般化するようになったが、これは対中国外交「天皇」号を用いていないことが、再び称号に関する議論呼び起こすことを当時政権懸念したためと推測されている。この時期以降外国からの条約文などでも「Mikado」や「Tenno」の使用減少し、「Emperor」が使用されていくようになった。 これ以降天皇号の他に皇帝号使用行われ民選私擬憲法元老院の「日本国憲按」などでも皇帝号君主号として採用されている。また陸軍法の参軍官制師団司令部条例でも皇帝号用いている。政府部内でも統一した見解はなかったが、明治22年1889年)の皇室典範制定時伊藤博文裁定「天皇」号に統一する決まり大日本帝国憲法でも踏襲されている。伊藤外交上で天皇号用いるべきと主張したが、同年5月枢密院書記官長井上毅外務省に対して下した見解では、「大宝令」を根拠として外交上に「皇帝」号を用いるのは古来からの伝統であるとしている。井上議長指揮受けて回答したとしているが、この当時枢密院議長伊藤である。この方針は広く知られなかったらしく、後に陸軍も同内容問い合わせ行っている。 大正10年4月11日大正十年勅令第三十八号で外国君主皇帝記載する太政官達廃止されたが、以降条約等でも国王天皇に対して皇帝の称が使用されている。 国内使用では殆どの場合「天皇」号が用いられたが、「日露戦争宣戦詔勅」など一部詔書法律皇帝号使用が行われた。大正期までは特に大きな問題とはならなかったが、昭和期になると国体明徴運動が活発となり、昭和8年1933年)には外交上も「天皇」号を用いるべきとの議論起きた外務省条約邦訳に対してのみ「天皇」号を用いるが、特に発表はしないことで解決しようとしたが、宮内省内の機関紙記事新聞社漏れ昭和11年1936年4月19日大きく発表を行わざるを得なくなった。ただし、外国語においては従来どおりとされた。

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