日本における登山靴と草履
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/20 17:59 UTC 版)
登山家でもあったアーネスト・サトウは1863年に六甲山を訪れた際に鋲を打った登山靴を持ち込んでおり、これが日本で使われた最初の登山靴と言われている。ウォルター・ウェストンは1894年に笠ヶ岳に登った際、靴鋲を打った登山靴を履いていたが、穴毛谷を下降した際に同行の仲間が草履を履いて楽に岩から岩へ跳んでいるのを見て、草履を1足借りて靴の底に結びつけて成功した旨を伝えている。 このように日本で登山が始められた頃に登山靴が入って来たが、当時履物と言えば草履であり、小島烏水も「穿物は草履に限る。長靴釘靴は、日本の山岳には断じて不適当なるを確言して憚らず」と主張するなど重さ、大きさ、堅さに皆一様に辟易し、欧米人しか用いずただちに普及はしなかった。そのためウォルター・ウェストンが登山靴に草履を重ね履きした話を伝え聞いて溜飲を下げた。実際ウォルター・ウェストンは穴毛谷での経験以来たびたび登山靴に草履を併用したようで、1913年に上高地河童橋で撮影されたその足下には登山靴に結びつけられた草履が写っている。この草履の登山靴併用は当時の外国人登山者の間で流行したが、これはその効果よりも異国趣味を楽しもうという気持ちが含まれていた可能性もある。 実際には草履は消耗が激しく、たちまち履き潰してしまうため、食料と同様に日数に比例した数を用意する必要があった。1915年に針ノ木峠から槍ヶ岳に縦走した一戸直蔵、河東碧梧桐、長谷川如是閑らは150足の草履を携行するためだけに人夫を雇ったが1人では背負いきれなかったという。ただ現実には輸入品もなく国産品を作る職人もいなかったので、身近な存在にはなり得なかった。 1921年に槇有恒がアイガーから凱旋し、同じ年にマリヤ運動具店(現好日山荘)がミッチランガー・ガウバから登山靴を輸入するようになって、またこの頃日本の登山界もいよいよ積雪期に挑戦するようになっていたことと重なり、草履は登山靴に転換された。 1922年には槇有恒の持ち帰ったグリンデルヴァルトのアマハー登山靴が東京本郷の太田屋靴店で、マリヤが輸入した靴は京都日の丸堂で模造された。
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