政治家・小説家として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/25 08:52 UTC 版)
「ジョン・バカン」の記事における「政治家・小説家として」の解説
オックスフォード大学を卒業したバカンは政治外交の道に足を踏み入れ、当時南アフリカ高等弁務官としてケープ植民地・トランスヴァール・オレンジ自由国の植民地行政にあたっていたアルフレッド・ミルナーの個人秘書となった。このことによって彼は「ミルナー幼稚園」(Milner's Kindergarten)と呼ばれるものの一員となったのである。同時に彼は後にとりわけ彼の著作の中で重要となる国について知識を得ることになった。執筆活動はバカンが1903年にロンドンへ戻った際に再開され、それはまた出版社のトマス・ネルソン&サンに共同経営者として迎えられ、スペクテイター誌の編集者となったときでもあった。ロンドンに戻ったバカンは政治の世界に乗り出し、ボーダーズ地方の選挙区から統一党の候補者として立候補したが落選した。彼は自由貿易、婦人参政権、国民保険制度、そして貴族院の権限を制限することに賛成していたが、自由党の福祉改革、あるいはデイヴィッド・ロイド・ジョージのような扇動的な自由党員によってもたらされる「階級間憎悪」と考えられるものには反対していた。1910年に南アフリカを舞台にした一連の冒険小説の始まりとなったPrester Johnを発表した。翌年には十二指腸潰瘍を患ったが、このことは後年の作品に登場するある人物に関する着想を与えることになった。バカンはさらに法律を学んでおり、1903年に法廷弁護士の資格を取得しているが、実際に法律家として活動することはなかった。1907年7月15日にノーマン・グロヴナー(Norman Grosvenor)の娘でウェストミンスター公爵の従姉妹であるスーザン・シャーロット・グロヴナー(Susan Charlotte Grosvenor)と結婚した。夫妻にはアリス(Alice)、ジョン(John)、ウィリアム(William)、アラステア(Alastair)の4人の子供が生まれ、うち2人は生涯の大部分をカナダで過ごしている。 第一次世界大戦が勃発すると、バカンは英国戦争宣伝局のために執筆し、タイムズ紙のフランス特派員として活動した。一方で小説の執筆も続けており、1915年に彼の最も有名な作品であり、大戦直前を舞台にしたスパイ小説『三十九階段』(The Thirty-Nine Steps)を刊行している。『三十九階段』にはバカン作品の主要人物となるリチャード・ハネイ(Richard Hannay)が登場するが、その造型は南アフリカ以来の友人であるエドマンド・アイアンサイドをもとにしたものだった。翌年には続編である『緑のマント』(Greenmantle)が発表される。バカンはやがて陸軍に入隊し情報部の少尉に任命されて、ダグラス・ヘイグ(Douglas Haig)元帥のスピーチや声明文を起草した。活躍が認められて、1917年にバカンは初代ビーヴァブルック男爵マックス・エイトケンのもと、情報部長に任用され(この仕事についてバカン自身は「経験した中で最も困難な任務」と述べている)、同時にチャールズ・マスターマン(Charles Masterman)を補佐して1915年2月に始まった月刊の戦史(後に24巻立てのNelson's History of the Warとして発行された)を刊行した。ただし指揮官たちとの密接な関係のため、バカンは戦争中陸軍の指揮について批判的になることは難しかった。 戦争終結とともに、バカンはスリラーや小説を書くことと共に歴史的な事物について書くことに関心を転じた。1920年代半ばまで、彼はエルズフィールド(Elsfield)に住み、スコットランド歴史協会の会長やスコットランド国立図書館理事の職を歴任した。また多くの大学と関係を深めてもいる。例えばロバート・グレーヴズは近傍のアイリプに住んでいたが、バカンの推薦によって新設されたカイロ大学で教職に就いたことを述べている。また1927年の補欠選挙ではバカンはスコットランド大学合同選挙区から統一党の下院議員に選出された。政治的には連合王国を支持する伝統のなかで、イギリス帝国内でのスコットランドの国家としての向上を考えていた。議会演説のなかで次のように述べている。「私はすべてのスコットランド人がスコットランド民族主義者であるはずだと信じております。もしスコットランド議会が必要だということが証明されるならば…(中略)…スコットランド人は必ずやそれを支えるでしょう。」スコットランドにおける大恐慌の影響と潜在的に高い度合いで起きているスコットランドからの移民流出も同じ演説のなかに反映されている。「我々はギリシャ人のように、住むところではどこでも強勢を誇り、繁栄を謳歌しながらその背後に死せるギリシャを抱えることを望んではいません。」彼はまたジョン・モーリーのLife of Gladstoneに大きな影響を受けていることに気付いた。第二次世界大戦が始まって数月の頃にそれを読んだのである。彼はグラッドストンが人々に物質主義や自己満足、権威主義に打ち勝つことを教えていると信じていた。後にハーバート・フィッシャーやステア・ジローン、ギルバート・マレーに宛てた手紙の中で自分が「グラッドストン的な自由主義者になりつつある」ことを述べている。スコットランド統一自由教会が1929年にスコットランド国教会と合同したのち、バカンはオックスフォードの長老派教会とロンドンの聖コロンバ教会両方の長老として活動し続けていた。1933年と1934年にバカンはスコットランド国教会の全国総会におけるジョージ5世の名代に任命されている。1930年以来、バカンはシオニズムに共感し、パレスティナ超党派議員連盟と関係していた。文芸と教育への貢献が認められて、1932年1月1日に彼はコンパニオン・オブ・オナー勲章を国王からの私的な贈り物として授与された。 1935年になるとバカンの作品は、話は大幅に変更されたものの、アルフレッド・ヒッチコックの『三十九夜』としてロバート・ドーナットがリチャード・ハネイ役にあてられて映画化された。同年5月23日にはバカンは聖マイケル・聖ジョージ勲章を授与されることになり、さらに6月1日にはジョージ5世からオックスフォード州エルズフィールドのトゥイーズミュア男爵に叙され貴族に列したが、これはカナダ総督への任命に先立って行われた。カナダ首相リチャード・ベッドフォード・ベネットが総督の人選について野党自由党の指導者ウィリアム・ライアン・マッケンジー・キングに意見を求めたとき、マッケンジー・キングは国王がバカンに平民のまま総督職を務めさせることを薦めたものの、最終的にジョージ5世は貴族によって自身が代理されることを主張し押し切った。バカンの名前は早くから総督候補としてマッケンジー・キングから国王に推挙されていた。すでに1924年にバカン夫妻は当時カナダ首相であったマッケンジー・キングの客としてキングズミアの別荘を訪れており、キングはバカンについて深い感銘を受けて絶賛している。翌年のある夕方にキングは総督の初代ヴィミー・オブ・ビング子爵ジュリアン・ビングにバカンが後任として適当であることを伝え、バカンとは友人であったビング卿自身も同意していた。こうした意向は時を経て英国政府に伝えられ、バカン自身も打診を受けているが、この時点では彼は引き受けたがらなかった。というのもバイングは1926年に起きた国制危機についてバカンに書き送っており、同時にマッケンジー・キングをけなしていたからである。
※この「政治家・小説家として」の解説は、「ジョン・バカン」の解説の一部です。
「政治家・小説家として」を含む「ジョン・バカン」の記事については、「ジョン・バカン」の概要を参照ください。
- 政治家・小説家としてのページへのリンク