政治家・実業家へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 22:55 UTC 版)
1896年(明治29年)2月、深川区より立候補をし、東京市会議員に当選する。市会議員として活躍し、1898年(明治31年)3月には東京府第5区(本所区・深川区)より第5回衆議院議員総選挙に出馬し、当選する。衆議院議員となり、同年6月には憲政党幹事に就任する。第6回総選挙で再選されたが、1900年(明治33年)3月に起きた東京市参事会収賄事件により収賄幇助罪にとわれた。このときに星亨は逓信大臣を辞職する騒動となった。判決は1902年(明治35年)に確定した。1902年5月、議員資格が消滅となった。 1899年(明治32年)9月、東京市街鉄道敷設の出願に参画し、実業界に足を踏み入れ、1905年には同社取締役に就任する。 また、日光(日光市)で鉱山業を計画したことが縁で鬼怒川流域の開発に関心を持ち、1910年(明治43年)10月に鬼怒川水力電気を創立させ、社長に就任する。翌1911年(明治44年)には、京成電気軌道(現・京成電鉄)会長、千代田瓦斯社長にも就任している。 そして1923年(大正12年)、小田原急行鉄道(現・小田急電鉄)を創立し、社長に就任。1927年(昭和2年)に新宿駅 - 小田原駅間を一気に開通させた。 1940年(昭和15年)には、これまでの功績が評価され紺綬褒章を受章した。 翌1941年(昭和16年)、高齢や山東半島の金鉱開発事業失敗などを理由に五島慶太に小田急電鉄の社長の座を禅譲し、小田急電鉄社長等、全ての役職より引退した。1945年(昭和20年)7月4日に世田谷区喜多見の自宅で死去。多磨霊園に埋葬された。
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