悲惨な収容所生活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/29 14:24 UTC 版)
「朝鮮民主主義人民共和国の強制収容所」の記事における「悲惨な収容所生活」の解説
収容者は態度によってランク分けされ、「小隊長」や「班長」に任命された収容者は役得を得て他の収容者の監視や拷問を行うこともあるという。一日の労働は約12時間、男女の差なく罪状により果樹園・炭鉱・森林伐採・採石などの重労働が課せられる。ノルマの果たせない者はノルマを果たすまで重い労働を徹夜で行わされたり、その場で銃殺されることもある。女性収容者は国家保衛省の監視員から性的虐待を受けることもしばしばある。そして、発覚した場合、女性収容者は拷問の末に殺されることも多い。なお、監視員も収容者と関係を持ったことを理由に懲戒免職され、鉱山などに送られることがある。収容者は男女を問わず、監視員の怒りに触れると死に至るまでの暴力・拷問を受ける。管理所内部では監視員の気まぐれによる公開処刑も頻繁に行われている。しかし処遇に耐えかねた収容者が自殺することは極めて稀である。北朝鮮には、収容者の自殺を防止するための社会的なシステムがあり、自殺者が発生した場合は、当局から「金日成・正日親子に対する反逆の責任を免れるため、自殺したのである」とみなされて、遺された収容者の家族が連座させられ、公開の場に引き出されて危害を加えられたり、侮辱されることになっている。従兄弟・叔父・叔母までもが連座して収容所に収容されることも珍しくはない。こうすることで、収容者の自殺は抑止されているという。政治犯は、李氏朝鮮の頃と同様に連座制で処分されており、反動分子を増やさぬためにという理由で基本的に親・子・孫の三代までが収容または中山間地域や炭鉱といった僻地への追放処分となる。 管理所の革命化区域の収容期間は2年から7年程度。不衛生な環境と著しい栄養失調のため収容中に病死、重労働での事故死というケースが殆どである。現在は食料難から国境の川、豆満江を越え中国へ逃れた人々を逮捕監禁するための教化所が足りなくなっている状態である。教化所は主に窃盗・殺人・売春などの一般犯罪者を収容する刑務所の役割。平均収容期間は3ヶ月から2年だが、15年や20年といった刑を言い渡された者も多い。食料難と重労働、ならびに虐待・人権蹂躙はこちらも同じである。2004年に第15号管理所の映像がフジテレビにより報道された。2003年頃からの脱北者からの証言によるとコッチェビと呼ばれる浮浪児のみを収容する施設もできていることが確認されている。 強制収容所で秩序を乱すとされた者は立つことも横になることもできない独房に入れられ最低1週間閉じ込められる。「水責め」(ビニール袋を頭から被り長い間水に沈める拷問)「飛行機」(手足を後ろに縛り顔を地面に向け一日最高5回各30分間吊るされる拷問)「睡眠剥奪」「爪の下に鋭利な竹片を刺す」「手錠・手首を縛って吊るす」などの拷問が行われている。低い机に縛り付けられヤカンを口に押し込まれ水を飲まされる拷問もあり、少しすると口中は水で溢れて鼻に水が入り始め、鋭い痛みを感じ息詰りで失神し、目覚めると尋問官が膨れ上がった腹の上に置いた板の上でジャンプして水を吐き出させる。苦しく嘔吐し始め、立ち上がれなく独房に連れ戻され、高熱に苦しめられて意識を失い、その後5ヶ月間吊るし拷問に遭う。 10歳の子供は1日30回自分の体重より重い30kgの土入りの袋を持ち上げるように言われ、できないと教師に棒で叩かれ、最初の10回目を過ぎる頃に両脚が震え始め、体が痛み、肩の皮膚が擦り剥け、倒れそうになる。高いセメント壁の上で3人の男性が作業をし、下で15歳の少女3人と少年2人がモルタルの補給作業をしていた時にセメントの壁が崩れ落ち、何トンものモルタルに全員が生き埋めになったが誰も助けようとせず、それ所か警備員たちは「作業を止めるな」と指示。土を掘り200メートル離れた作業場に運ぶよう命令された時に崩れそうな小山があり、監督していた教師たちは子供たちに掘り続けるよう言ったが3日後に小山が突然崩れ、小山の頂上にいた子供6人の内3人が死亡、他の3人が重傷を負ったが教師たちは子供たちの不注意だと責めた。 脱走者は捕まって2・3ヶ月間尋問されてから処刑される。囚人は蛇やネズミを捕まえて食べ、豚の餌さえも食べ、牛の糞の中にトウモロコシの実を見つけ、拾って袖で拭いて食べたりもしている。班がその日の仕事の目標を達成できない場合は班全員が集団で罰せられ、飢えと衰弱で目標を達成できないと罰として殴打され食料の割り当てを減らされ、仕事後の会議で目標を達成できなかった者は他の囚人から厳しく非難され叩かれ、病気になれば生産しなかったということで食事は与えられない。15号管理所の囚人は何年間も入浴をせずシャワーも浴びていなく体は悪臭を放ち、シラミに覆われていてとても痒くなり長年のうちに垢が厚い層になる。夏期に看守が囚人の悪臭に耐えられなく川での水浴びを許可するが「果たして翌日生きているかどうかわからない」という理由でほとんどの囚人が水を浴びなかった。釈放後厚くなった垢とシラミを取り除くのに数ヶ月掛かるという。 チェ・クヮンホは「朝鮮民主主義人民共和国ではもう暮らしていけない」と言ったために15号管理所に送られ、飢えで作業班から抜け出して野イチゴを取りに行ったため2001/4/28に公開処刑にされた。ドン・チュルミ(26歳)は宗教を理由に1999年に処刑された。2001/9にパク・インシク(38歳)は酔って国の経済構造を批判したため15号管理所へ送られ、2003/2に蜂の巣から蜜を取って食べて捕まり独房に送られ、食べ物の割り当てを減らされ栄養失調で死亡。カン・グン(北朝鮮出身・韓国籍)は2005/3/4に中国吉林省から拉致され、最初に拘禁された咸鏡北道清津市の拘禁施設において殴打されるなどの拷問を受け両脚が切断され、その後2008-2009年の間に管理所へ移送された。海外から強制送還された1人の脱北女性が栄養失調になったため教化所当局は女性を食堂勤務に移したが、残飯を与えて栄養を摂らせようというような配慮からの措置ではなく「食べ物の匂いでも嗅いで生きてみろ」ということであり、この女性は間もなく死亡した。
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