引退 - フリーランス(2006年-2016年)
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「中田英寿」の記事における「引退 - フリーランス(2006年-2016年)」の解説
ドイツW杯をもって日本代表から引退する事は以前から決まっていたが、2005年11月、中田は代表引退と同時に引退の意向を所属事務所社長の次原悦子に初めて話した。その後の話し合いで次原は中田の引退の意思が固い事を確認し、引退プロジェクトが始動。2、3月には守秘義務契約を交わした上で各スポンサーに報告を行った。また、現役最後の試合となったW杯のブラジル戦の前に監督のジーコには、この試合が引退の試合になるという事を伝えている。 2006年7月3日、自身の公式HP上 で引退を表明。「あらゆる人に、できるだけ同時にニュースが伝わるタイミングを狙った(次原談)」との理由で日本時間21時の発表となった。チームとの契約は残っていたが、「もうお金はいらないから契約を切ってほしい」とチームと話し合い契約を解除してもらった。 引退の記者会見を開かなかった理由については、ヨーロッパでは開く人はいないからと答えており、引退の理由にケガは関係なく、引退したのはサッカーを好きな部分が長きに渡って楽しめなくなったからと後のインタビューで答えている。 以後は世界各地を旅しており、見聞を広めながら自分にできることを探したいという趣旨の発言をしている。また、サッカーの恩恵に感謝しており、「今後の発展を願っているし、貢献もしたい」と繰り返し語っている。同年12月、2007年7月に開催される第14回アジアカップの組み合わせ抽選会にドロワーとして出席した。 2007年7月モナコ居住権取得。 2007年12月、日本で開催されたクラブW杯の記者会見に出席、引退後初めての公式会見となった。その席でFIFAのブラッター会長は、中田が世界50カ国、150都市以上を旅し、国連のプログラムに協力しながら、サッカーを通じた社会貢献活動を続けていることを高く評価し、世界で16人目となるFIFA親善大使への就任を要請したことを発表。中田は今後FIFAと共にさまざまな活動をしていく考えを述べ、要請を受諾した。 2008年6月、『TAKE ACTION! 2008 実行委員会』を立ち上げ、地球環境に「なにかできること、ひとつ。」をテーマにキャンペーンを行った。その中の企画の一つとして、海外スター選手を招いてのサッカー親善マッチ『+1 FOOTBOOL MATCH』を開催。海外では選手や元選手が世界のスター選手をオーガナイズしてチャリティーマッチや親善試合を行っているが、日本人では初の試みとなるもので、横浜国際総合競技場に約6万3000人の観衆を集めた。この試合は啓発を目的としておりチャリティーマッチではなかったが、来場者に出場選手の直筆サイン入りユニフォームが当たるラッフル(くじ)を購入するという方式で寄付を募り、寄付金はミャンマー・サイクロン食糧支援と、中国・西部大地震復興支援に全額寄付された。また、中田の主旨に賛同したルイ・ヴィトン主催によるチャリティー・ガラにおいて、「中田チームと試合できる」権利が800万円で落札されるなど約2900万円の収益をあげ、アフリカのマラリア対策のための蚊帳を購入する資金として寄付され、翌年の5月には中田本人がアフリカに行って配布に参加し、配布状況を見届けている。 また、『TAKE ACTION! 2008 実行委員会』は、収益の中から岩手・宮城内陸地震へ義援金を寄付した。 2009年1月、審査団の一員として選出方法から参画していた、アラブ系最大サッカー雑誌の『Super』誌による年間最優秀アジア選手、年間最優秀アフリカ選手、年間最優秀アラブ選手の表彰式に出席、年間最優秀アジア選手賞のプレゼンターを務めた。審査委員長は、著名なレフェリーだったピエルルイジ・コッリーナが務めている。同月、メンバー6名からなる国土交通省観光庁の有識者会議「観光庁アドバイザリー・ボード」に、世界各地を回った経験が評価された中田が選ばれ、定期的に会合に出席してアドバイスをしていくこととなった。 また、一般財団法人「TAKE ACTION FOUNDATION」を立ち上げ、代表理事に就任。4月には、TAKE ACTION FOUNDATIONの初事業として、中田の郷里である甲府市の信玄公祭りに合わせ、山梨県サッカー協会主催のヴァンフォーレ甲府との親善試合と、TAKE ACTION F.Cのメンバーがコーチとなるサッカー教室が行われた。収益の一部から、アフリカへのサッカーボール2万個の寄付と教育プログラムが実施され、また、甲府市が行うサッカーの機会拡大のための地域活性プロジェクトへ250万円を寄付した。 同月から、フジテレビ「すぽると!」月曜日「マンデーフットボール」に半年間月1回不定期で録画出演した。6月、ローマ時代の元同僚であるヴァンサン・カンデラの引退試合に出場。選手時代と同じ「8」の番号を付けたユニホームでスターティングメンバーとしてスタディオ・オリンピコのピッチに立った。9月、週刊誌『AERA』に日本全国を周る旅について綴るコラムの連載を開始。同月、FIFAとコカ・コーラ共催の「コカ・コーラ FIFAワールドカップトロフィーツアー」のアンバサダーに就任。11月には、これまでのアフリカへの支援活動により、アフリカ各国の大使らが構成する在日本アフリカ外交団から表彰を受けた[要出典]。 2010年2月、湘南ベルマーレのJ1昇格記念試合『We're back』では、TAKE ACTION F.C.とベルマーレOBとの親善試合が開催され、また、ハイチ復興支援のための寄付活動も合わせて行われた。同年3月、TAKE ACTION FOUNDATIONでの活動が評価され、世界経済フォーラム(通称「ダボス会議」)の「ヤング・グローバル・リーダーズ2010」に選出された。 一方、世界各地を旅した中で、日本の文化や技術に対する高い評価に触れたことをきっかけに、2009年春から日本各地を旅し、文化・伝統・農業・ものづくりへの理解を深めるようになった。こうした活動は、朝日新聞社「AERA」に執筆したコラム「つなぐ」(2016年まで連載)などで表した。中でも日本酒については、海外への普及を目指して活動を活発化させた。2012年7月にはロンドンオリンピック開催中のロンドンで、蔵元がサービスする日本酒バー「N-bar」プロジェクトを展開し、2014年のブラジルW杯期間中にも「nakata.net Cafe 2014」の一環でサンパウロにて展開された。同年には、自身の日本酒ブランド「N」を、高木酒造との協力で初めて発売した。
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