引退の撤回と第22回衆議院議員総選挙
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「三木武夫」の記事における「引退の撤回と第22回衆議院議員総選挙」の解説
8月15日の終戦後、三木は政治家として戦争の責任を負うべきと考え、議員辞職して食料品店でもやろうかと睦子に持ちかけた。しかし睦子はこれから米国がやって来るので、米国のことを良く知る三木が必要とされると言い、議員辞職に反対した。結局三木は議員を続けるかどうかを次の選挙で決めることとし、もし落選したら今後選挙には出ないこと、そして選挙終了後まで政党に入らないことを決意した。三木のところには、森家の縁で千石興太郎から日本協同党に、鳩山一郎から日本自由党にそれぞれ誘われたが、三木は断った。 9月には三木の家族は疎開先の秩父から東京へと戻った。東京に戻った三木の一家は、まず雑司が谷にあった元共産党の研修所のような建物に落ち着いた。研修所として用いられていた建物らしく、狭い部屋がいくつもある集合住宅のような家であったが、ほどなく三木の家族以外にも居候が住みつくようになり、20人前後の人々が出入りする大所帯になり、睦子は戦後の食糧難の中、食糧確保に走り回ることになる。 1946年(昭和21年)の第22回衆議院議員総選挙に立候補するためには、GHQから立候補資格確認書の交付が必要とされた。三木は翼賛選挙では翼協非推薦であり、この点では立候補資格に問題は無かったが、翼賛政治会の幹事、理事や、軍需省参与官を務めた経歴から資格が認められない可能性もあった。三木はGHQに戦前に日米友好に尽くしたことをアピールするなど確認書の交付に向けて尽力した。しかし三木の確認書交付は遅れてしまい、陣営にあきらめムードも漂うようになった選挙戦開始後、ようやく交付された。 第22回衆議院議員総選挙は婦人参政権が認められ、男女普通選挙となった。選挙区も基本的に全県一区の大選挙区制で行われ、徳島県も全県一区、定数5に対して30名が立候補した。前述の立候補資確認書の交付が遅れてしまったために選挙戦に出遅れ、更にこれまで選挙区外であった県南部も回らなければならなかった。しかし三木は婦人参政権が認められた初の選挙らしく、明大女子専門部の学生4名を応援演説に駆り出すといった作戦を実行し、東京から徳島へ自動車を持ち込み、自動車で行けない場所は自転車に幟を立てて選挙区中を回った。この選挙で三木は民主政治の確立、教育の刷新、食糧問題の解決などを訴えるとともに、足かけ10年の国会議員経験に加えて、欧米訪問、米国留学体験がある国際派であり、それらの体験を国政に生かせる人物であるとアピールした。4月10日に行われた投票の結果、三木はトップ当選を果たした。
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