小林よしのりとの対立
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意見対立が原因で小林よしのりの漫画に登場した事がある。かつて小林は、チャンネル桜の支持者であり、自ら司会を務める番組も受け持つなど、思想上の細かい相違はあれど、一時的には和解状態に至ったこともあった。しかし、皇室問題や原発を巡る言説の相違がきっかけとなり、小林は一方的な降板を宣言し、両者の亀裂は決定的なものとなった[要出典]。皇室問題については、一貫して伝統重視の立場を取っている。
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小林よしのりとの対立
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1995年に地下鉄サリン事件が起こるとオウム真理教の扱いを巡って性急な犯人視報道を批判したため、同じ『SPA!』の連載陣であった小林よしのりと対立する。そこで、宅は小林との公開討論を要求したが、小林は自身の連載の影響力の面から論争を通じての売名行為だとして応じず、当時の編集長・靍師一彦にも反発した末に、連載を引き揚げるに至った。 その後は、小林への配慮もあって一時期は批判的な言及を控えてはいたが、1995年に、小林とは交流があった切通理作と対立して、自身のコラムや文章の中で、切通の自宅の電話番号を何度も公表したり、彼の妻も誹謗中傷するなどしたため、最終的に小林が紹介した弁護士を通じて、切通から抗議が寄せられたことで一旦連載が中断となり、靍師は打ち切りに最後まで反対したものの、小林の離脱に伴う雑誌の売上率低下なども重なり、解任された。宅と靍師はこれらの顛末については、小林の圧力があったことを主張しているが、小林は「オウムと同じ陰謀論か。結構だ。切通に弁護士を紹介したが何か悪いのか?」と移籍先の『SAPIO』掲載分にて反論している。なお、『SPA!』上の連載では休載扱いとされていたが、1997年に「再開即最終回」という形で1回限りの復帰掲載で公式に終了した。 ただし、宅は『教科書が教えない小林よしのり』と同書に掲載された、1997年5月20日に開催したロフトプラスワンでの座談会「放送禁止大学2」と『週刊SPA!』連載「週刊宅八郎」および『噂の真相』1995年10月号掲載「業界恐怖新聞」スペシャル版と1996年2月号掲載「週刊SPA!連載を突如中断された宅八郎の『逆襲』メッセージ」にて、小林の漫画『ゴーマニズム宣言』『新ゴーマニズム宣言』と切通理作に反論している。 1995年3月8日に、小林は以下の理由から宅を攻撃すると編集部に宣告。第一に「週刊宅八郎」にて岡留安則の写真を使ったことが不快。第二に絓秀実を登場させたことが不快(1995年2月1日号『週刊SPA!』掲載「週刊宅八郎」第5回)。第三に西岡昌紀を登場させたことが気に入らない(宅は文藝春秋の『マルコポーロ』謝罪会見を取材しており、また、西岡と対談している。1995年2月22日号『週刊SPA!』掲載「週刊宅八郎」第8回および1995年3月15日号『週刊SPA!』掲載「週刊宅八郎」第11回)。 3月29日号『週刊SPA!』掲載の「ゴーマニズム宣言」第143章で小林が宅を攻撃。 4月12日号『週刊SPA!』掲載の「週刊宅八郎」で反論。 5月3日・10日号『週刊SPA!』掲載「週刊宅八郎」のオウム真理教の上祐史浩との対談について、小林は「やめてほしい」と靍師に打診したとしているが、靍師はこれを拒絶。また宅も編集部の持つ編集権への干渉にして権利の濫用と批判している。 5月17日号『週刊SPA!』掲載の「ゴーマニズム宣言」第149章から6月14日号『週刊SPA!』掲載の第154章まで6号連続で宅を攻撃。この間、西岡と鈴木邦夫も攻撃。 一方、宅は5月31日号、6月14日号から28日号『週刊SPA!』掲載の「週刊宅八郎」で反撃(第21回から第24回。なお、6月7日号は宅、鈴木、見沢知廉との緊急鼎談記事「オウムをめぐる危険な報道と捜査」掲載のため休載)。 7月5日号『週刊SPA!』掲載の「週刊宅八郎」で「小林よしのりへの決闘状」発表。なお、小林は『ゴーマニズム宣言』第4巻で「バカヤロー これからは作家に連絡してこい!そして公開討論で決着をつけよう!」と描いている。 月刊『宝島30』1995年9月号掲載、切通理作の「小林よしのり言いたい放題インタビュー」について、宅は切通に対し「地の部分で小林に追従し、宅の思考や『週刊SPA!』の編集方針さえ全部決めつけた内容だった」として処刑宣告。また、大泉実成を本人の許諾を得た上でインタビュアーに指名したインタビューの掲載依頼をするが、『宝島30』編集長上田高史は大泉ではなく別のライターによるインタビューでないと掲載できないとして、そのライターによる記事が『宝島30』10月号に掲載されると同時に、切通の記事「サリン気分の人たちへ」が掲載される(この記事には「宅八郎インタビューより先に入稿されました」というお断りまで入っていた。また、宅、絓、鈴木、松沢のほか、大泉、芹沢俊介、鶴見済、中沢新一、中森明夫の連載「中森文化新聞」、山崎哲を全部一くくりにして、皆サリン気分に浸っているという論理で書いているものだった)。 それ以降、宅は切通を「後出しジャンケン」として批判し続けたが、宅は切通宅の電話番号は公開していない。また、小林の事務所や切通宅にイタズラ電話はしていない。実際、切通の電話番号を調べたが登録はなかった。 宅は切通宅の住所を暴露したと小林は主張しているが、明かしたのは地名までである。また、切通は自著で実家の住所を地番まで含め全て明かしており、プライバシーの侵害には該当しない。さらに、別の記事でも実家の所在地を、また別の記事では当時住んでいたアパートの所在地を明かしており、同様にプライバシーの侵害には該当しない。 妻の職業も暴露したという主張も当たらない。なぜならば切通は2冊目の自著で「ヌードモデル」と書いており、単に引用したにすぎない。ただし、宅は妻の噂の間違いについては訂正している。 切通は『週刊SPA!』編集部に抗議文を郵送したと小林は漫画に描いているが、実際には扶桑社が手配したバイク便で届いたことを宅と靍師は明かしている。 10月30日、扶桑社の取締役と切通、小林、宝島社の『宝島30』担当編集者が陰謀会議。 11月9日、扶桑社の役員会にて「週刊宅八郎」の打ち切りが決定。 11月10日、19時。宅、靍師、扶桑社の役員2名との会議。この間、『週刊SPA!』の編集者が同誌で連載をしていた松沢呉一に、切通から扶桑社の役員宛ファックスが届いたこと、そのファックスを『ゴーマニズム宣言』の担当編集者が持って行ったことを連絡。このファックスには切通は小林から情報をもらっていたことが記載されていた。これにより、小林と切通が裏で画策していたことが明らかに。なお、このファックスについては『教科書が教えない小林よしのり』163-167ページにて触れられている。 また、小林は絓を過去に「生きている資格はない!弱者の味方ぶるな くされインテリ!!」(ゴーマニズム宣言第6巻)、西岡を「やばい意味でのオタク」(ゴーマニズム宣言第8巻)と誹謗中傷している。西岡については、『マルコポーロ』掲載の「ナチ『ガス室』はなかった。」について、「記事と同じ内容のパンフレットを送ってきた」(ゴーマニズム宣言第8巻)と漫画で批判しているが、実際はワープロ打ちの別の内容のパンフレットであり、小林の捏造であると西岡は反論しており、抗議文と質問状を送っている(『教科書が教えない小林よしのり』pp.55-65およびpp.130-135)。 なお、切通については、宅、大泉、松沢のほか、浅羽通明、鶴見済なども批判している。また、複数の著者による徳間書店発行『「尊師麻原」は我が弟子にあらず』に参加した小阪修平も共著者の切通の姿勢に対して怒りをあらわしている。
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