外陣壁画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/11 14:08 UTC 版)
法隆寺金堂初層は外陣(げじん)が正面5間、側面4間、内陣が正面3間、側面2間である。ここでいう「間」は長さの単位ではなく柱間の数を表す建築用語であり、「5間」とは柱が1列に6本並び、柱間が5つあるという意味である。外陣の周囲には裳階(もこし)と呼ばれる廂(ひさし)部分があり、一般拝観者が立ち入りを許されるのはこの裳階部分である。外陣の正面5間のうち中央の3間、背面の中央間、両側面のそれぞれ北から2間目、以上6面の柱間には扉が設けられ、残りの12面を土壁とし、ここに壁画が描かれていた。 壁画には1号から12号までの番号が振られている。東側の扉を入って左側の壁が1号壁で、その隣(南側)が2号壁、以下、時計回りに番号が振られ、東側扉の北側に位置する壁が12号壁である。壁面の大きさは横幅255 – 260cm前後の大壁(たいへき)と横幅155cm前後の小壁(しょうへき)の2種類がある(壁面の高さはいずれも約310cm)。東面の1号壁、西面の6号壁、北面中央扉の左右に位置する9号壁と10号壁の計4面が大壁、外陣の四隅に位置する残り8面が小壁である。
※この「外陣壁画」の解説は、「法隆寺金堂壁画」の解説の一部です。
「外陣壁画」を含む「法隆寺金堂壁画」の記事については、「法隆寺金堂壁画」の概要を参照ください。
外陣壁画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/11 14:08 UTC 版)
外陣の壁画12面のうち、1号、6号、9号、10号の4面の大壁には三尊仏を中心にした浄土図が表され、残り8面の小壁には各1体ずつの菩薩像が表されている。大壁4面の主題については、1号壁=釈迦浄土図、6号壁=阿弥陀浄土図、9号壁=弥勒浄土図、10号壁=薬師浄土図とするのが通説となっているが、異説もある。 鎌倉時代、法隆寺僧の顕真の撰になる『聖徳太子伝私記』には金堂壁画について言及している部分があり、東の壁(1号壁)は宝生如来、西の壁(6号壁)は阿弥陀如来、北の裏戸の西脇壁(9号壁)は釈迦如来、北の裏戸の東脇壁(10号壁)は薬師如来を主尊とした浄土を描いたものだとしている。近代以降、壁画に対する美術史的研究が進展するとともに、『太子伝私記』説とは異なる尊名比定が行われるようになった。その1つは、四大壁の主題を『金光明経』に説かれる四方四仏を表したものであるとする説である。『金光明経』の四方四仏とは、東=阿閦仏(あしゅくぶつ)、西=無量寿仏(阿弥陀)、南=宝相仏、北=微妙声仏(みみょうしょうぶつ)である。この場合、1号壁=阿閦、6号壁=阿弥陀、9号壁=微妙声、10号壁=宝相、となる。この説は1916年(大正5年)、美術史家の瀧精一の所説によって知られるようになったが、明治時代末期に小野玄妙も同様の説を唱えていた。しかし、阿弥陀以外の阿閦、微妙声、宝相については、上代に造像例が見られないことがこの説の難点であった。 福井利吉郎は1917年(大正6年)に発表した説で瀧説を批判し、上代の四方四仏は釈迦、阿弥陀、弥勒、薬師の組み合わせに限られるので、法隆寺金堂の四大壁についてもこれらの仏の浄土を表したものだとした。その例証として、天平2年(730年)に建立された奈良・興福寺五重塔の初層には釈迦、阿弥陀、弥勒、薬師の浄土を表現した塑像群が安置されていたことを挙げている。源豊宗も1926年(大正15年)の論文で、四大壁の主題は釈迦、阿弥陀、弥勒、薬師の四仏であるとした。金堂壁画の四大壁は、東西南北の方位に正確には対応していないが(北面には大壁が2つあり、南面には大壁がない)、源説では1号壁=南方釈迦、6号壁=西方阿弥陀、9号壁=北方弥勒、10号壁=東方薬師にあたるとする。四方(東西南北)を守護する四天王像は、実際に安置される場合は、東西南北ではなく仏壇の四隅に配されるが、源説では法隆寺金堂壁画の方位のずれについても四天王の安置法と同様であると解釈する。 内藤藤一郎は1931年(昭和6年)の論文で、1号壁で主尊の周囲に描かれているのは釈迦十大弟子像であることを指摘し、図像の面から1号壁は釈迦浄土図であるとした。6号壁については中尊の印相や両脇侍が観音菩薩・勢至菩薩であることから、これを阿弥陀浄土図とみることに異論はない。残る9・10号壁については、前述のとおり、9号壁=弥勒、10号壁=薬師とするのが通説であるが、そのように断定する決め手に欠けている。中国や日本で弥勒像を倚像(腰かけた形の像)として表す例が多いことから、中尊を倚像とする10号壁を弥勒仏浄土とする説もある。水野清一は1965年(昭和40年)の論文で9号壁にみえる六神将像を薬師十二神将像の一部とみなし、9号壁=薬師、10号壁=弥勒とする説を唱えた。水野は、従来の諸説は「方位にとらわれすぎ」ていると指摘し、壁画の図像そのものを重視することの必要性を説いた。なお、松原智美は、水野説を評価しつつも、水野が「薬師十二神将像の一部」とみなした6体の像のうち4体については、八部衆のうちの4体を表したものだとしている。 1号壁・釈迦浄土図 - 東の大壁。裳懸座に坐す釈迦如来像と両脇侍立像からなる釈迦三尊を中心に、その左右に十大弟子が侍立する。下方には供物台とその左右に一対の獅子がおり、上方には中央に天蓋、その左右に天人が表される。釈迦如来の脇侍は文殊菩薩・普賢菩薩とする場合が多いが、本図の脇侍菩薩は図像的に文殊・普賢とは思われず、『法華経』「寿量品」に説かれる薬王・薬上菩薩を表すものとみられる。焼損前の写真を見ると、図様や色彩は比較的鮮明に残っていた。 2号壁・菩薩半跏像 - 東面の南端。向かって左を向き、左脚を踏み下げる菩薩像。左手に長い蓮華の茎を持つ。 3号壁・観音菩薩立像 - 南面の東端。向かって右を向いて立つ。右手を下げ、未敷蓮華(みぶれんげ、つぼみの状態の蓮華)を持つ。宝冠に阿弥陀の化仏(けぶつ、小型の仏像)があることから、観音菩薩(阿弥陀仏の脇侍)であることがわかる。 4号壁・勢至菩薩立像 - 南面の西端。向かって左を向いて立つ。勢至菩薩は観音菩薩とともに阿弥陀仏の脇侍。3号壁の観音像と対になるもので、像の輪郭線も3号壁のものと向きが反対になるだけでほぼ同じであり、同じ下絵を用いたものと思われる。焼損前から彩色の剥落が多かった。 5号壁・菩薩半跏像 - 西面の南端。向かって右を向き、右脚を踏み下げる菩薩像。2号壁の菩薩像と向かい合う位置にあり、一対の像であることは明らかである。2号壁と5号壁の両菩薩像については、日光・月光菩薩(薬師如来の脇侍)とする説、弥勒仏の両脇侍菩薩とする説などがあるが、今ひとつ決め手を欠き、正確な像名は未詳である。 6号壁・阿弥陀浄土図 - 西の大壁。蓮華座上に坐し後屏を背にする阿弥陀如来坐像と両脇侍立像(観音菩薩、勢至菩薩)の三尊像を中心に、下部に17体、上部に8体、計25体の菩薩像を表す。この図様は浄土三部経の1つ『無量寿経』所説の浄土を表すものと解釈されている。制作が優れ、法隆寺金堂壁画の中でも代表作として知られたものである。焼損前の写真でも画面の下半分は剥落が激しく、図様が明確でない。 7号壁・観音菩薩立像 - 西面の北端。体勢は正面向きに近く、わずかに向かって左を向いて立つ。宝冠に阿弥陀の化仏(けぶつ、小型の仏像)があることから、観音菩薩であることがわかる。焼損前から剥落甚大であった。 8号壁・文殊菩薩坐像 - 北面の西端。向かって右を向いて坐す。図像的特色からは尊名の確定が困難であるが、この絵と対をなす11号壁が普賢菩薩(釈迦如来の右脇侍)像であることから、8号壁の像は文殊菩薩(釈迦如来の左脇侍)像であると判断される。焼損前の写真を見ても画面に亀裂が目立つ。 9号壁・弥勒浄土図(異説もあり) - 北壁扉の西側の大壁。蓮華座上に坐す如来像と両脇侍像からなる三尊像を中心に、天部2体、八部衆のうち4体、羅漢2体、力士2体の計13体を表す。下方には供物台とその左右に一対の獅子がおり、上方には中央に天蓋、その左右に天人が表される。焼損前の写真を見ても、西日が当たる位置にあったためか、全体に剥落が激しく、図様がはっきりしない。 10号壁・薬師浄土図(異説もあり) - 北壁扉の東側の大壁。倚像の如来像と両脇侍像からなる三尊像を中心に菩薩2体、羅漢2体、神将4体、力士2体などを表し、下方には供物台とその左右に一対の獅子がおり、上方には中央に天蓋、その左右に天人が表される。焼損前の写真を見ると、比較的保存状態はよいが、薬師如来像の顔面や肉身が変色して黒ずんでいた。 11号壁・普賢菩薩坐像 - 北面の東端。象の上の蓮華座に向かって左を向いて坐す。図像的特色(象の上に乗る)から、普賢菩薩像であるとわかる。8号壁の文殊菩薩像と対をなす。 12号壁・十一面観音立像 - 西壁の北端。8つの小壁に描かれた菩薩像のうちでは唯一、真正面向きに立つ。向かい合う位置にある7号壁の観音菩薩像と対をなす。
※この「外陣壁画」の解説は、「法隆寺金堂壁画」の解説の一部です。
「外陣壁画」を含む「法隆寺金堂壁画」の記事については、「法隆寺金堂壁画」の概要を参照ください。
- 外陣壁画のページへのリンク