国鉄・JR特急としての「さくら」
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「さくら (列車)」の記事における「国鉄・JR特急としての「さくら」」の解説
「東海道本線優等列車沿革」も参照 1929年9月に鉄道省が当時東京駅 - 下関駅間で運行していた、特別急行列車に列車愛称を与えたが、そのうち3・4列車に「櫻」(さくら)の愛称を与えた。 この3・4列車は、1923年7月から運行を開始したが、この列車は、1912年6月から運転を開始していた日本初の特別急行1・2列車に次ぐものであった。しかし、編成は1・2列車が一等・二等車のみで編成され、食堂車も「洋食堂車」を連結していたのに対し、3・4列車は三等車を中心に連結し、食堂車は「和食堂車」だった。どちらかといえば大衆向けの列車であったようである。1・2列車と続行するダイヤで運転されていた。 1925年5月より3・4列車に充当される三等車に専用客車として2列一方向固定座席を備えるスハ29300形(スハ28400形)・スハフ29500形(スハフ28800形)に置き換えた。 「櫻」の愛称が与えられた後1930年には編成をスハ33900形・スハフ35250形といった鋼製客車へ置き換えられ、1931年6月からは京都駅 - 下関駅間で三等寝台車を連結(1934年3月より全区間連結)、1934年12月の丹那トンネル開通に伴うダイヤ改正では二等寝台・座席車が連結されるようになった。この時、1・2列車「富士」との続行運転もとりやめられ、1時間半の間隔を置いて運転するようになった。 1937年には輸送量増強のため三等座席車をスハ32800形に置き換えられ、1941年7月には戦時体制の強化により三等寝台車の連結が中止された。 1942年11月の関門トンネル開通によるダイヤ改正で、「櫻」は鹿児島駅まで延長されるが、同時に列車番号をそれまでの東京駅 - 下関駅間各等急行7・8列車(改正後は東京駅 - 鹿児島駅間各等急行3・4列車)と番号を入れ替える形で二・三等急行7・8列車に格下げとなり、愛称も消滅した。しかし、東京駅 - 下関駅間のダイヤ、編成については特急「櫻」と同じである。 1943年7月にそれまでの特急列車を「第一種急行」、急行列車を「第二種急行」とする制度変更が実施されたが、この変更で旧「櫻」である東京駅 - 鹿児島駅間二・三等急行7・8列車は第一種急行料金が適用され、列車番号も3・4列車に戻された。同年10月に「決戦ダイヤ」と称する、旅客列車を削減・速度低下させるダイヤ改正が行われた際も東京駅 - 鹿児島駅間二・三等急行3・4列車(旧「櫻」)は残されたが、1942年11月から1943年6月まで3・4列車を名乗っていた各等急行7・8列車は展望車・一等寝台車連結を中止、下関駅で打ち切りとなった。なお、この急行7・8列車のダイヤは、戦後「きりしま」の元となる東京駅 - 鹿児島駅間直通急行列車の元ともなっている。1944年4月には「決戦非常措置要綱」に基づいて「富士」を廃止、一般の営業列車から展望車・一等車・寝台車・食堂車の連結が中止された後も急行3・4列車は存続、列車の統廃合を経て1945年3月の時点で残存した唯一の東京駅 - 下関駅間急行1・2列車は3・4列車のダイヤを引き継いだものであった。 第二次世界大戦後「さくら」の愛称が復活したのは、1951年4月 - 5月に東京駅 - 大阪駅間を運行した特急「つばめ」・「はと」の救済臨時列車として東京駅 - 大阪駅間に設定された臨時特急列車に「さくら」の名称を与えたものである。 この時こそ三等車と食堂車のみの編成組成となったが、この列車はこの後も設定され、二等車(特別二等車)の設定もなされた。戦前の「櫻」と同様、三等車主体の編成であったが、著名人や外国人が乗車した日には一等展望車が増結されたこともあった。1957年10月のダイヤ改正には不定期列車に昇格。東海道本線に電車特急が登場する1958年10月のダイヤ改正まで多客時の増発臨時列車として運転された。 また、「ビジネス特急」の仮称を持っていた20系電車「こだま」号の登場に際して列車愛称を一般から公募した時の仮称として一部部内で用いたともされる。 高度経済成長時代に入ると、東京と九州を結ぶ長距離寝台特急列車として、緒となる「あさかぜ」に続く形で長崎本線系統の特急列車として運行を開始した列車に「さくら」の名が与えられた。1965年からは一部の編成が佐世保線佐世保駅まで乗り入れるようになった。 なお、東京から長崎本線を経由する系統の長距離寝台特急列車には当初「あさかぜ」に続く風に関する愛称の列車として「さちかぜ」が設定されたが、「あさかぜ」と紛らわしいため、1958年10月のダイヤ改正時に東京 - 大阪駅間ビジネス特急の佳作であった「平和」に改められた。しかし、「平和」の語調の硬さからか1959年7月の20系客車導入に際し再び改められ「さくら」となった。なお、この「さくら」も東京駅 - 大阪駅間ビジネス特急列車愛称の佳作として名を連ねていた。 後に運行を開始する鹿児島本線系統の「はやぶさ」、日豊本線系統の「富士」と共に、いわゆる「九州ブルートレイン」の一角として国鉄並びにJRの花形列車となったが、同じ国鉄・JRの新幹線(東海道・山陽新幹線)や、完全な競合である航空機などの競合交通手段に対する時間的な不利や、1970年代から続いた相次ぐ運賃・料金の値上げ、1990年代以後の航空運賃の多様化による実質的な値下げや格安ビジネスホテルの台頭、車両の老朽化などによって乗客は減少の一途を辿り、1999年に佐世保駅発着列車が廃止され、「はやぶさ」との併結運転で残っていた長崎駅発着列車も2005年3月に廃止となった。
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