国政にて
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1989年、第15回参議院議員通常選挙に自由民主党公認で比例区から出馬し、初当選した。1992年に宮澤改造内閣で総務政務次官、1994年に村山内閣で沖縄開発政務次官に任命された。 2001年、第1次小泉内閣で財務副大臣(税制担当)に任命される。翌2004年、第2次小泉改造内閣で厚生労働大臣に任命され、初入閣した。第3次小泉内閣でも留任。2005年、第3次小泉改造内閣の発足により退任し、参議院予算委員長に就任した。 2007年、第21回参議院議員通常選挙での自民党大敗を受け、引責辞任した青木幹雄の後任を選出する参院議員会長選挙に立候補を届け出た。当初、元文部大臣の中曽根弘文を推す声もあったが、立候補を届け出たのが尾辻のみだったため、無投票で参院議員会長に選出された。2010年、参議院副議長就任に伴い、参院議員会長を辞任した。2012年、以前から日本遺族会副会長を務めていたが、古賀誠会長の退任により後任の遺族会会長への就任が内定したため、参院副議長を辞任した。 2013年の第23回参議院議員通常選挙では、自民党の定年制により比例区からの立候補ができないため、引退する加治屋義人に代わって鹿児島県選挙区に鞍替えし、民主党の皆吉稲生らを大差で破り、5選。2014年5月、日本遺族会会長を辞任。2019年の第25回参議院議員通常選挙で6選。
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国政にて
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1983年(昭和58年)6月、第13回参議院議員通常選挙で愛知県選挙区に自由民主党公認で出馬し初当選を果たした。党内では田中派に所属した。 1987年(昭和62年)7月、経世会が結成され、田中派が竹下派(経世会)、二階堂グループ、中立系に3分裂した際は竹下派に移った。同年11月に発足した竹下内閣で農林水産政務次官を務めた。 1989年(平成元年)、第15回参議院議員通常選挙で2度目の当選を果たし、参議院農林水産委員長などを務めた。 1995年、自民党県連は参院選に向けて吉川の公認を一旦決定したものの、公認申請を行った県議の鈴木政二との共倒れを恐れ、同年5月10日、参院選の候補者を鈴木に一本化した。その結果、吉川は衆院選・愛知9区に鞍替えをさせられた。 1996年(平成8年)9月20日、第41回衆議院議員総選挙の愛知9区において、新進党の海部俊樹に惨敗した。 2008年(平成20年)7月2日、愛知県弥富市の病院で肺炎のため死去。85歳没。
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国政にて
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2010年の第22回参議院議員通常選挙に社会民主党公認で比例区から立候補し、同党の候補者の中では福島瑞穂に次ぐ2位の個人票を集めて、初当選した。なお、大分県職労から大分県議、国会議員になった経歴は、村山富市、重野安正と同じである[要出典]。 社会民主党の参議院議員団においては、2010年より参議院国会対策委員長を務め、2011年には参議院幹事長に就任するなど、要職を歴任した。2013年には、社民党本部の政策審議会長に就任した。 2013年9月26日、同年7月の第23回参議院議員通常選挙における社民党大敗の責任をとる形で党首を辞任した福島瑞穂の後任を決める党首選への出馬を表明した。同年10月14日、17年振りとなる党首選で石川大我を破って第4代党首に選出された。党首就任後「脱原発」を訴える元内閣総理大臣、小泉純一郎と電撃会談し、意見交換を行った[要出典]。 2015年8月15日に在日本大韓民国民団主催の第70周年光復節中央記念式典に出席した。 2016年7月10日に執行された第24回参議院議員通常選挙にて落選し、7月14日に社民党党首を引責辞任する意向を表明。しかし、9月1日に開催された社民党常任幹事会での慰留を受け入れて非議員ながら党首を続投することとなった。 2018年1月に予定されていた社民党党首選挙には出馬せず、同年2月25日に任期満了に伴い退任した。 2019年7月21日に執行された第25回参議院議員通常選挙に比例区から出馬し、当選。3年ぶりに国政に復帰した。この選挙における社会民主党公認候補者唯一の当選者だった。 2020年2月22日の党大会において幹事長に選出された。吉田らは立憲民主党との合流を模索し、同年11月14日の臨時党大会では希望する党員・地方組織の離党と立憲民主党への合流を容認する議案が可決。12月17日に吉田は「離党して立憲民主に合流する。政治を正すためには質的にも量的にもしっかりした野党を作っていかなければならず、社会民主主義的な理念政策を立憲民主の中で広げていきたい」と述べ、立憲民主党へ合流することを正式表明した。24日に吉田と副党首の吉川元は社民党に離党届を、立憲民主党に入党届を提出し、いずれも同日受理された。 2021年10月31日の第49回衆議院議員総選挙で立憲民主党は議席を「109」から「96」に減らし、11月2日、枝野幸男代表は引責辞任を表明。枝野の辞任に伴う代表選挙(11月30日実施)では逢坂誠二の推薦人に名を連ねた。
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国政にて
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1996年、第41回衆議院議員総選挙に自民党から出馬し、初当選。以降7期連続当選している。.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}} 東京都豊島区にて(2010年6月10日) 2013年10月訪日したオーストラリアのジュリー・ビショップ(英語版)外務大臣(右)と 東京都板橋区栄町にて(2021年10月24日) 当選後は清和政策研究会へ入会。同年、自民党青年局長安倍晋三の下で同次長。2000年、第42回衆議院議員総選挙に自民党から出馬し、再選。自民党「明日を創る会」のメンバー。2002年、衆議院議事進行係に就任。自民党の文部科学部会副部会長。2003年、法務大臣政務官に就任。2005年、文部科学大臣政務官に就任。未来を見据えた教育のあり方、法整備に関する官民学の勉強会を立ち上げる。その後、自民党副幹事長に就任。皇室典範改正に対しては、慎重な姿勢を見せている。2014年1月28日の定例記者会見で、「いわゆる“自虐史観に基づいた歴史教科書”について、学習指導要領解説の改定を行った」とを表明した。同年9月26日、安倍内閣の内閣官房副長官に就任。幼保一元化を推進するための制度改革に着手。福田康夫内閣では「留学生三十万人計画」の委員会委員長。 2009年の第45回衆議院議員総選挙に自民党から出馬し、新党日本新人の有田芳生を約3500票差の僅差で破り、5選。2010年9月に発足した自民党シャドウ・キャビネットでは、「影の文部科学大臣」を務めた。2012年、安倍自民党総裁のもと、教育再生実行本部が設立され教育再生実行本部長就任。
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国政にて
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2001年、第19回参議院議員通常選挙に社会民主党公認で比例区から立候補し、初当選した。
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