各地の制作旅行とは? わかりやすく解説

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各地の制作旅行(1880年代)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 06:30 UTC 版)

クロード・モネ」の記事における「各地の制作旅行(1880年代)」の解説

フランス イギリス オランダ ドイツ ベルギー スイス イタリア スペイン パリ ジヴェルニー エトルタ ボルディゲーラ アンティーブ マルセイユ フレスリーヌ ロンドン ベル=イル島 地中海 モネ1883年4月、再びデュラン=リュエルから引っ越し費用援助得てパリの西約80キロ郊外にあるジヴェルニー移り以後1926年没するまでこの地で制作続けた。なお、1883年4月から6月にかけて、デュラン=リュエルは、ロンドン・ボンド・ストリート(英語版)のダウデスウェル画廊モネを含む印象派展覧会開いたが、ロンドン批評家多くは無関心であり、モネ落胆した1880年代モネは、エトルタのほかにも、ヨーロッパ各地旅行して制作した1883年12月ルノワールとともに地中海沿岸旅しマルセイユからサン=ラファエルモンテカルロ経由してリグーリア海岸リヴィエラ)のボルディゲーラ訪れ帰りエスタックポール・セザンヌ訪ねた。いったんパリ戻ったあと、1884年1月から4月にかけて、もっとも美しい場所と感じたボルディゲーラ1人再訪して滞在したモネは、1人での再訪決めた理由について、デュラン=リュエルに「ルノワールとの楽しい旅は、なかなか素晴らしかったのですが、制作するには落ち着きませんでした」と述べており、以前のように共同制作から成果を得る手法難しくなったことを示している。当時ルノワール印象主義離れ明確な輪郭線の絵に回帰していた。モネ3月ボルディゲーラから、デュラン=リュエルに「あらゆる物が玉虫色きらめきパンチのような赤色の炎を上げている。素晴らし風景だ」と感嘆する手紙送っている。ボルディゲーラマントン滞在中に50点を制作した1885年春、画商ジョルジュ・プティ開いた第4回国際絵画彫刻展に風景画10点出品した同年9月から12月までのエトルタ滞在では、『マンヌポルト』や『エトルタ海岸の船』を制作したこのころモネは、デュラン=リュエルと、その競争相手ジョルジュ・プティ2人取引をするようになった苦境の中で印象派支えてきたデュラン=リュエルは国際絵画彫刻展への出品猛烈に抗議したが、モネ複数画商と関係を築くことによって大衆からの信用得られるものと考えルノワールらもこれにならった1886年春にオランダ訪れライデンハールレムの間のチューリップ畑に魅了された。チューリップ畑の作品2点が、同年6月15日からジョルジュ・プティ画廊開かれた第5回国際絵画彫刻展に出品され成功収めたジョリス=カルル・ユイスマンスも、これを見て本当に眼のご馳走だ」と称賛したデュラン=リュエルは1886年4月ニューヨークでパリ印象派油絵パステル画展」を開きモネ作品40点あまりを出品したモネは「あなたがおっしゃるようにアメリカで成功したいとは思ってます。でも、僕の絵は特にこの国〔フランス〕で有名になって、売れてほしいと思っています」と述べアメリカで販売冷淡であったが、展覧会好評であった。この展覧会は、モネはじめとする印象派の画家たちが、アメリカで認知を受け、経済的に安定するきっかけとなったデュラン=リュエルとジョルジュ・プティ双方からの貸与により、同年ブリュッセル開かれた20人展にも出品した他方最後印象派展となった第8回展は、スーラシニャックピサロ新印象主義大きな勢力占めており、モネはこれを嫌って参加しなかった。 同年1886年秋には、ブルターニュ沿岸の島、ベル=イル=アン=メール訪れコトン港のピラミッド岩や、ドモワ港のギベル岩といった奇岩を、さまざまな視点天候の下で描いた。このときモネ出会った美術批評家ギュスターヴ・ジェフロワは、のちに著した伝記で、モネ様子次のように書いている。 最初は、いつも辺り見かける水夫一人だと思ったモネは、風や潮のしぶき立ち向かうために、長靴をはき、帽子をかぶり、水夫同じような服を着ていたのだ。 1887年5月第6回国際絵画彫刻展に、ベルイル風景画など15点出品した荒削りであるとの批判と、オクターヴ・ミルボーなどの賞賛とに分かれたが、作品のほとんどが売れモネ満足した1888年初めに南仏コート・ダジュールアンティーブ滞在し30点ほどを制作した同年6月、ブッソ・ヴァラドン商会(旧グーピル商会)のテオドルス・ファン・ゴッホ作品売ったテオドルスモンマルトル大通り展示室で『アンティーブの海の風景』と題する10点作品展示しモーパッサンマラルメギュスターヴ・ジェフロワらから高い評価得た一方テオドルスとの取引は、デュラン=リュエルとの関係を一層悪化させ、モネデュラン=リュエルとの契約解消してしまった。 1889年には、小クルーズ川英語版)がクルーズ川英語版)に合流するフレスリーヌ(英語版)で、20点ほどの作品制作したそのうち9点はほとんど同じ構図で、光の効果だけを変えてクルーズ峡谷描いたもので、モネ自身連作」という言葉使っている。 このように各地制作旅行に出かけている間も、アリス・オシュデとの関係は深まっていき、ボルディゲーラアンティーブ、フレスリーヌといった旅先から、アリスに愛を告白する手紙をたびたび送っている。また、ジヴェルニー帰ったときにはアリス娘たちモデルに、エプト川(英語版)での舟遊びや、『パラソルを差す女』を描いた1889年6月ジョルジュ・プティ画廊で、モネ以前から待望していたオーギュスト・ロダンとの2人展が実現したモネ1864年から1889年にかけての作品145点を一堂集めた展覧会であり、大成功収めた。ブッソ・ヴァラドン商会との契約解消しデュラン=リュエルとの取引再開したが、契約結ばず複数画商値付けをさせ、競争させるという手法をとった。 また同年5月パリ万国博覧会合わせて開かれたフランス美術100年展に、モネ作品3点展示された。この展覧会マネ『オランピア』展示されたが、アメリカ売られることになっていることを聞きモネ制作活動中断し募金『オランピア』マネ未亡人から購入してルーヴル美術館寄贈しようという運動乗り出した。元美術大臣アントナン・プルーストゾラ反対に遭ったが、モネは、2万フラン集め1890年11月、国のリュクサンブール美術館収蔵させることに成功した。 『ボルディゲーラ別荘群』1884年油彩キャンバス115 × 130 cmオルセー美術館。 『サッセンハイムのチューリップ畑』1886年油彩キャンバス、59.7 × 73 cmクラーク美術館英語版)。第5回国際絵画彫刻出品。 『コトン港のピラミッド岩』1886年油彩キャンバス65 × 81 cmプーシキン美術館第6回国際絵画彫刻出品(W1084)。 『パラソルを差す女(フランス語版)(左向き)』1886年油彩キャンバス131 × 88.7 cmオルセー美術館(W1077)。 『舟遊び1887年油彩キャンバス、145.5 × 133.5 cm国立西洋美術館東京)(W1152)。 『アンティーブの朝』1888年油彩キャンバス、65.7 × 82.1 cmフィラデルフィア美術館。 『クルーズ峡谷灰色の日)』1889年油彩キャンバス、65.5 × 81.2 cmボストン美術館。 『クルーズ峡谷日没)』1889年油彩キャンバス73 ×70.5 cmウンターリンデン美術館英語版)。

※この「各地の制作旅行(1880年代)」の解説は、「クロード・モネ」の解説の一部です。
「各地の制作旅行(1880年代)」を含む「クロード・モネ」の記事については、「クロード・モネ」の概要を参照ください。

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