各地の制作旅行(1880年代)
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「クロード・モネ」の記事における「各地の制作旅行(1880年代)」の解説
フランス イギリス オランダ ドイツ ベルギー スイス イタリア スペイン パリ ジヴェルニー エトルタ ボルディゲーラ アンティーブ マルセイユ フレスリーヌ ロンドン ベル=イル島 地中海 モネは1883年4月、再びデュラン=リュエルから引っ越し費用の援助を得て、パリの西約80キロの郊外にあるジヴェルニーに移り、以後、1926年に没するまでこの地で制作を続けた。なお、1883年4月から6月にかけて、デュラン=リュエルは、ロンドン・ボンド・ストリート(英語版)のダウデスウェル画廊でモネを含む印象派の展覧会を開いたが、ロンドンの批評家の多くは無関心であり、モネは落胆した。 1880年代、モネは、エトルタのほかにも、ヨーロッパ各地を旅行して制作した。1883年12月、ルノワールとともに地中海沿岸を旅し、マルセイユからサン=ラファエル、モンテカルロを経由して、リグーリア海岸(リヴィエラ)のボルディゲーラを訪れ、帰りにエスタックでポール・セザンヌを訪ねた。いったんパリに戻ったあと、1884年1月から4月にかけて、もっとも美しい場所と感じたボルディゲーラを1人で再訪して滞在した。モネは、1人での再訪を決めた理由について、デュラン=リュエルに「ルノワールとの楽しい旅は、なかなか素晴らしかったのですが、制作するには落ち着きませんでした」と述べており、以前のように共同制作から成果を得る手法は難しくなったことを示している。当時、ルノワールは印象主義を離れ、明確な輪郭線の絵に回帰していた。モネは3月、ボルディゲーラから、デュラン=リュエルに「あらゆる物が玉虫色にきらめき、パンチ酒のような赤色の炎を上げている。素晴らしい風景だ」と感嘆する手紙を送っている。ボルディゲーラとマントン滞在中に約50点を制作した。 1885年春、画商ジョルジュ・プティが開いた第4回国際絵画彫刻展に風景画10点を出品した。同年9月から12月までのエトルタ滞在では、『マンヌポルト』や『エトルタ海岸の船』を制作した。このころモネは、デュラン=リュエルと、その競争相手ジョルジュ・プティの2人と取引をするようになった。苦境の中で印象派を支えてきたデュラン=リュエルは国際絵画彫刻展への出品に猛烈に抗議したが、モネは複数の画商と関係を築くことによって大衆からの信用も得られるものと考え、ルノワールらもこれにならった。 1886年春にはオランダを訪れ、ライデンとハールレムの間のチューリップ畑に魅了された。チューリップ畑の作品2点が、同年6月15日からジョルジュ・プティ画廊で開かれた第5回国際絵画彫刻展に出品され、成功を収めた。ジョリス=カルル・ユイスマンスも、これを見て「本当に眼のご馳走だ」と称賛した。 デュラン=リュエルは1886年4月、ニューヨークで「パリ印象派の油絵・パステル画展」を開き、モネの作品40点あまりを出品した。モネは「あなたがおっしゃるようにアメリカで成功したいとは思っています。でも、僕の絵は特にこの国〔フランス〕で有名になって、売れてほしいと思っています」と述べ、アメリカでの販売に冷淡であったが、展覧会は好評であった。この展覧会は、モネをはじめとする印象派の画家たちが、アメリカでの認知を受け、経済的に安定するきっかけとなった。デュラン=リュエルとジョルジュ・プティ双方からの貸与により、同年ブリュッセルで開かれた20人展にも出品した。他方、最後の印象派展となった第8回展は、スーラ、シニャック、ピサロの新印象主義が大きな勢力を占めており、モネはこれを嫌って参加しなかった。 同年(1886年)秋には、ブルターニュ沿岸の島、ベル=イル=アン=メールを訪れ、コトン港のピラミッド岩や、ドモワ港のギベル岩といった奇岩を、さまざまな視点と天候の下で描いた。このときモネと出会った美術批評家ギュスターヴ・ジェフロワは、のちに著した伝記で、モネの様子を次のように書いている。 最初は、いつも辺りで見かける水夫の一人だと思った。モネは、風や潮のしぶきに立ち向かうために、長靴をはき、帽子をかぶり、水夫と同じような服を着ていたのだ。 1887年5月の第6回国際絵画彫刻展に、ベル=イルの風景画など15点を出品した。荒削りであるとの批判と、オクターヴ・ミルボーなどの賞賛とに分かれたが、作品のほとんどが売れ、モネは満足した。 1888年初めには南仏コート・ダジュールのアンティーブに滞在し、30点ほどを制作した。同年6月、ブッソ・ヴァラドン商会(旧グーピル商会)のテオドルス・ファン・ゴッホに作品を売った。テオドルスはモンマルトル大通りの展示室で『アンティーブの海の風景』と題する10点の作品を展示し、モーパッサン、マラルメ、ギュスターヴ・ジェフロワらから高い評価を得た。一方、テオドルスとの取引は、デュラン=リュエルとの関係を一層悪化させ、モネはデュラン=リュエルとの契約を解消してしまった。 1889年には、小クルーズ川(英語版)がクルーズ川(英語版)に合流するフレスリーヌ(英語版)で、20点ほどの作品を制作した。そのうち9点はほとんど同じ構図で、光の効果だけを変えてクルーズ峡谷を描いたもので、モネ自身「連作」という言葉を使っている。 このように各地に制作旅行に出かけている間も、アリス・オシュデとの関係は深まっていき、ボルディゲーラ、アンティーブ、フレスリーヌといった旅先から、アリスに愛を告白する手紙をたびたび送っている。また、ジヴェルニーに帰ったときには、アリスの娘たちをモデルに、エプト川(英語版)での舟遊びや、『パラソルを差す女』を描いた。 1889年6月、ジョルジュ・プティ画廊で、モネが以前から待望していたオーギュスト・ロダンとの2人展が実現した。モネの1864年から1889年にかけての作品145点を一堂に集めた展覧会であり、大成功を収めた。ブッソ・ヴァラドン商会との契約は解消し、デュラン=リュエルとの取引を再開したが、契約は結ばず、複数の画商に値付けをさせ、競争させるという手法をとった。 また同年5月、パリ万国博覧会に合わせて開かれたフランス美術100年展に、モネの作品3点が展示された。この展覧会にマネの『オランピア』が展示されたが、アメリカに売られることになっていることを聞き、モネは制作活動を中断し、募金で『オランピア』をマネ未亡人から購入してルーヴル美術館に寄贈しようという運動に乗り出した。元美術大臣アントナン・プルーストやゾラの反対に遭ったが、モネは、2万フランを集め、1890年11月、国のリュクサンブール美術館に収蔵させることに成功した。 『ボルディゲーラの別荘群』1884年。油彩、キャンバス、115 × 130 cm。オルセー美術館。 『サッセンハイムのチューリップ畑』1886年。油彩、キャンバス、59.7 × 73 cm。クラーク美術館(英語版)。第5回国際絵画彫刻展出品。 『コトン港のピラミッド岩』1886年。油彩、キャンバス、65 × 81 cm。プーシキン美術館。第6回国際絵画彫刻展出品(W1084)。 『パラソルを差す女(フランス語版)(左向き)』1886年。油彩、キャンバス、131 × 88.7 cm。オルセー美術館(W1077)。 『舟遊び』1887年。油彩、キャンバス、145.5 × 133.5 cm。国立西洋美術館(東京)(W1152)。 『アンティーブの朝』1888年。油彩、キャンバス、65.7 × 82.1 cm。フィラデルフィア美術館。 『クルーズ峡谷(灰色の日)』1889年。油彩、キャンバス、65.5 × 81.2 cm。ボストン美術館。 『クルーズ峡谷(日没)』1889年。油彩、キャンバス、73 ×70.5 cm。ウンターリンデン美術館(英語版)。
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