中毒死事件
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「アレクサンドル・リトビネンコ」の記事における「中毒死事件」の解説
詳細は「リトビネンコ事件」を参照 2006年11月1日の夜、リトビネンコは自宅で突如体調を悪化させ、11月3日には地元の病院に収容された。当初は胃腸炎と診断されたが、症状は悪化を続け、リトビネンコは毒を盛られたと主張した。11月17日、リトビネンコは集中治療のためロンドン中心部の大病院に転院した。当時はタリウムによる中毒が疑われていたが、その後の数日で尿サンプルから放射性物質ポロニウム210が検出され、毒物が特定された。11月23日、リトビネンコは急性放射線症候群により集中治療室で死亡した。44歳没。 異変が起こった11月1日中、リトビネンコはロンドンのミレニアム・ホテル内のバーで元KGB職員アンドレイ・ルゴボイ(英語版)およびドミトリー・コフトン(英語版)と会っており、それ以前にはピカデリーサーカス周辺の寿司店「itsu」でイタリア人の研究者マリオ・スカラメッラと昼食をとっていた。 11月19日、イギリスのマスコミは、タリウム中毒が疑われプーチン政権による毒殺未遂の可能性が濃いと報道した。ロンドン警視庁(スコットランドヤード)の対テロ捜査部門は、毒殺が企てられたものとして捜査を開始。11月22日病院側は,毒物はタリウム以外の放射性物質であると発表した。面会相手のマリオ・スカラメッラは事件後、『武器密輸』、『国家機密漏洩』の罪状で、イタリアのナポリの空港で逮捕された。ロシア大統領府副報道官のペシコフは、「リトビネンコの毒殺未遂事件にロシア政府が関与するなどあり得ない。全くばかげたことだ」 と反駁した。 11月24日のBBC放送は、彼の体内から、ウランの100億倍の比放射能を有する放射性物質のポロニウム210が大量に検出されたと報じた。ポロニウム210が体内に取り込まれた場合、アルファー線を被曝することになる。大量のポロニウム210を人工的に作るには、原子力施設など大がかりな設備が必要とされる。英外務省は同日、駐英ロシア大使のフェドトフを通じ、事件関連情報の提供をロシア政府に要求した。 25日付の英紙タイムズは、英国内務省の防諜機関で国内の治安を担当する情報局保安部 (MI5/SS) と英国外務省の対外諜報機関:情報局秘密情報部 (MI6/SIS) も捜査に加わったと報道。同紙は、「動機、手段、機会の全てがFSBの関与を物語っている」 と指摘した。捜査当局は同日、リトビネンコの自宅と彼が事件当日に紅茶を飲んだといわれるロンドン市内のホテルと寿司屋を捜索し、この3カ所で放射性物質の痕跡を確認。英内務省と健康保護庁は緊急ホットラインを設け、寿司屋やホテルのバーを利用した市民に放射線を探知するための尿検査を受けるよう呼びかけた。中には日本人観光客らも被害を受けた可能性があるとも報じられた。 ロンドン警視庁は27日、プーチンと敵対し英国に亡命しているロシアの政商ベレゾフスキーの事務所から、ポロニウム210の痕跡が検出されたと発表した。29日付のロシア紙イズベスチヤは、リトビネンコが核物質密輸を行っていた可能性があると報じた。 11月29日、英国の航空会社:ブリティッシュ・エアウェイズは、欧州便22機から、少量の放射線反応があったことを発表、10月25日以降の合計221便に搭乗した合計3万3000人余りに対し、保健省緊急窓口への連絡を要請した。便名は自社のウェブサイトで公表している。 11月25日、プーチンを糾弾する内容のリトビネンコの遺書が公表された。 2007年1月に、リトビネンコの中毒死事件を題材にした映画をジョニー・デップがプロデュースし、制作すると報じられた。2007年5月に、カンヌ国際映画祭にアンドレイ・ネクラーソフのドキュメンタリー映画『暗殺・リトビネンコ事件』が出品された。 イギリス警察当局は、2007年1月20日リトビネンコ毒殺の容疑者を確認したと発表する。5月22日に主犯とされる旧ソ連国家保安委員会(KGB) の元職員アンドレイ・ルゴボイを殺人罪で告発し、ロシア政府に対し身柄引き渡しを求めた。これに対しロシア側は2007年7月5日に憲法によりロシアの市民の受け渡しは出来ないとして拒否した。イギリスは抗議としてロシア外交官4人を国外追放するが、ロシアもその報復としてイギリス外交官を4人追放した(ペルソナ・ノン・グラータ)。このように、イギリス側は殺害されたとの見方を固めているが、ロシア側が拒否するという状況が続いている。 容疑者とされたルゴボイは、2007年12月2日に行われたロシア下院議員選挙に極右政党・ロシア自由民主党の候補者として立候補、同党比例代表として名簿2位として登載され、同党が得票率制限を超えて議席を獲得しており、当選を決めた。 2014年に英国政府はリトヴィネンコの遺族の訴えに応じて、事件に対する第三者による調査委員会を設置した。調査委員会は80人以上の関係者から話を聞くなどして調査を進め、2016年1月21日、およそ220ページに上る報告書をまとめ公表した。調査報告書中で、調査委員会は「殺害の計画は、おそらくウラジーミル・プーチン大統領によって承認された」として、プーチンが関与した可能性があるという見方を示した。ロシア連邦政府は英国の調査報告書について反発し、ロシア外務省のザハロワ報道官が、「刑事事件が政治問題化され、英露間の雰囲気を悪化させる」と反駁した。事件に関与した容疑で英国政府が身柄引き渡しを要求したアンドレイ・ルゴボイ下院議員も「調査報告はばかげており、いつものロシアのイメージを傷つけるキャンペーンだ。イギリスは、リトビネンコ氏が死亡した本当の原因を解明しようとしていない」と述べて、調査報告書を批判した。マリーナ・リトヴィネンコ未亡人は、ロンドンで声明を発表し、「夫の言葉が正しかったことが証明されたことに満足している」と述べ、今後も英国政府に対してロシアに強い姿勢で臨むよう訴えた。
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中毒死事件
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1986年当時、ニッケル夫妻はワシントン州オーバーンに住んでいた。6月5日、ブルース (当時52歳) は仕事を終え、頭痛を抱えつつ帰宅した。ステラによると、ブルースは頭痛を抑えるため、瓶からエキセドリンのカプセルを4錠取り出して服用した。そして、その数分後に倒れたという。それからまもなく、ブルースはハーバービュー・メディカル・センター(英語版)で治療の甲斐なく死亡した。当初、ブルースの死は自然死と判断された。担当の医師たちは気腫が原因だろうと見なした。 ブルースの死から1週間足らずで新たに死亡者が出たことから、当局はブルースの死因を再考する必要に迫られた。6月11日、オーバーンの銀行の支店長であるスー・スノー (英: Sue Snow、当時40歳) は早朝に頭痛に悩まされ、エキセドリンのカプセルを2錠服用した。スノーの夫も関節炎のため、同じ瓶からカプセルを2錠取り出して服用し、仕事に行った。午前6時30分、スノーの15歳の娘は、スノーが洗面所の床に倒れているところを発見した。意識を失っており、脈拍は微弱だった。救急車が呼ばれ、スノーはハーバービュー・メディカル・センターへ移送された。しかし、その日のうちに意識を取り戻すことなく死亡した。
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