ローレンス・オリヴィエとの結婚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/07 01:59 UTC 版)
「ヴィヴィアン・リー」の記事における「ローレンス・オリヴィエとの結婚」の解説
1940年2月になって、オリヴィエの妻ジル・エズモンドとリーの夫ホルマンはどちらも離婚に合意した。ただし、両人共にリーとの深い交友関係はその後も生涯続いている。オリヴィエの息子タルキンの親権は母親のエズモンドが、リーの娘スーザンの親権は父親のホルマンがそれぞれ得ている。1940年8月31日にオリヴィエとリーはカリフォルニア州サンタバーバラの高級ホテルであるサン・イシドロ・ランチ (en:San Ysidro Ranch) で結婚した。結婚式には立会人として女優キャサリン・ヘプバーンと劇作家ガーソン・ケニンの二人しか招かれていない。結婚したリーはオリヴィエとの共演を望み、オリヴィエが主役の一人を演じることになっていたアルフレッド・ヒッチコックの監督作品『レベッカ』のスクリーンテストを受けた。しかしながら、スクリーンテストを確認したプロデューサーのセルズニックは「彼女(リー)には、誠実さ、若々しさ、純真さが欠けていると感じる」と判断し、監督ヒッチコックやリーの恩師ジョージ・キューカーもこの判断を支持した。 セルズニックは、オリヴィエの出演が決まるまでリーが『レベッカ』に興味を示していなかったと考えており、主役の「わたし」にはジョーン・フォンテインを選んだ。さらにセルズニックは、リーがオリヴィエとの共演を望んだ『高慢と偏見』でも、リーではなくグリア・ガースンを起用した。また、1940年の映画『哀愁』はリーとオリヴィエの共演が予定されていたが、セルズニックはオリヴィエを外して、メトロ・ゴールドウィン・メイヤーの看板スターで、当時人気絶頂だったロバート・テイラーを起用している。この映画にかけられた莫大な宣伝費用は主役を演じたリーのハリウッドでの地位を示すもので、『哀愁』は観客からも批評家たちからも高評価を得た。 結婚後、映画での共演はなかなか果たせなかったリーとオリヴィエだが、舞台ではブロードウェイで1940年5月に上演された『ロミオとジュリエット』で共演している。しかしながらこの作品に対する評価は散々なものだった。ニューヨーク・プレス紙は、リーとオリヴィエの関係が不倫から始まったことを指摘し、母国イギリスが第二次世界大戦を戦っている最中であるにも関わらず、二人がイギリスに戻って戦争に協力しないことに対する道徳心の欠如を疑問視する記事を掲載している。ニューヨーク・タイムズの映画評論家ブルックス・アトキンソン (en:Brooks Atkinson) は「リーとオリヴィエの容姿は端麗かもしれないが、演技は全くなっていない」と批判している。二人に対する非難はほとんどがオリヴィエの演技や演出に対するものだったが、バーナード・グラバニーのように「リーの発声は薄っぺらく、店の売り子並みの質しかない」とリーを酷評する批評家もいた。「二人はこの舞台(『ロミオとジュリエット』)にほとんど全財産をつぎ込んだために、破産寸前となってしまった」ともいわれている。 1941年の映画『美女ありき』で、オリヴィエはイギリス海軍提督ホレーショ・ネルソン役、リーはその愛人エマ・ハミルトン役として共演した。当時のアメリカは未だ第二次世界大戦には参戦しておらず、この『美女ありき』は当時ドイツに対して苦戦を続けていたイギリスに対するアメリカの大衆の関心を惹く目的で製作されたハリウッド映画の一つだった。『美女ありき』はアメリカでヒットし、ソビエト連邦でも非常に大きな成功を収めた。当時のイギリス首相ウィンストン・チャーチルは『美女ありき』の上映会を企画し、アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトら厳選した招待客に向かって「みなさん、この映画を楽しんでいただけることと思います。この映画は、現在あなたたちが直面している大きな出来事ととてもよく似ていますから」とスピーチしている。チャーチルはオリヴィエのことを気に入っており、生涯を通じて夕食に招待したり、行事への参加を依頼したりする間柄だった。チャーチルはリーのことも「本当に彼女は素晴らしい」と評していた。 その後オリヴィエはイギリスに戻り、リーは単独で1943年に北アフリカのイギリス軍を慰問した。北アフリカ各地を回ったが、その後しばらくしてから咳と発熱のために慰問の中断を余儀なくされている。1944年にリーは左肺が結核に罹患していると診断され、数週間の入院生活を送った。『シーザーとクレオパトラ』(1945年)の撮影中に妊娠していることが判明したが、このときリーは流産してしまった。流産にひどく落ち込んだリーは自身が泣き疲れ果てて床に崩れ落ちるまで、オリヴィエに怒鳴り散らし、殴りかかった。これが、その後リーが長く苦しむことになる双極性障害の最初の大きな発作となった。リーは非常に深く落ち込んだかと思うと、数日間は異常なまでに活動的になった。落ち込んでいるときのことは何も覚えておらず、リーはそんな自分にひどい困惑を感じていたといわれている。 1946年には演技が出来るまでにリーの病状が回復した。劇作家ソーントン・ワイルダー原作の戯曲『危機一髪 (en:The Skin of Our Teeth)』は好評だったが、この前後の時期にリーが出演した『シーザーとクレオパトラ』(1945年)と『アンナ・カレニナ』(1948年)は大きな成功を収めたとはいえない。 1947年にオリヴィエがナイト爵を受け、バッキンガム宮殿で開催された叙任式にはリーとオリヴィエの二人で出席した。リーもナイト爵士夫人として「レディ」の称号を許された。後に二人は離婚しているが慣例に従ってリーに「レディ」の称号は残されており、リーは公式の場ではヴィヴィアン・レディ・オリヴィエとして知られるようになっている。 1948年ごろにはオリヴィエがオールド・ヴィック・シアターの重役の一人となり、劇場の運営資金を得るためにオーストラリアとニュージーランド各地で六カ月間にわたる巡業を開始した。オリヴィエはシェークスピアの戯曲『リチャード三世』で主役を演じたほか、リチャード・ブリンズリー・シェリダンの戯曲『悪口学校 (en:The School for Scandal)』や『危機一髪』ではリーと共演で舞台をつとている。この巡業は非常に大きな成功を収めた。巡業中のリーは不眠症に悩まされており、体調が悪かったときには一週間代役が立てられたこともあったが、自身に任せられた役割はなんとかこなしていた。オリヴィエはリーの「マスコミを魅了する」能力に賛辞をよせている。ただし、この巡業に参加した団員たちが当時のことを振り返り、リーとオリヴィエの間には何度か諍いがあり、ニュージーランドのクライストチャーチでの上演でリーが舞台に上がることを拒否した事件がとくに印象的だったと語っている。このときオリヴィエはリーの顔を平手打ちし、リーもオリヴィエに平手打ちを返した。そして最終的にリーがステージに上がる直前までオリヴィエに毒舌を浴びせ続けた。巡業の終わりごろには両者共に消耗しきっており、体調を崩していた。オリヴィエはマスコミに対して「知らないかもしれないけれど、今あなたは歩く死人二人に話しかけているんだよ」と語りかけている。後にオリヴィエは、オーストラリアで「ヴィヴィアンを失った」とコメントしている。 オーストラリアとニュージーランドでの巡業公演の大成功に気をよくしたオリヴィエは、ロンドンのウエスト・エンドにおけるリーとの初の舞台共演を行った。このときの演目は、今まで共演した作品のほかに古代ギリシアの悲劇作家ソフォクレスの『アンティゴネー』も上演されている。これはリーが悲劇を演じたいと希望したためでもあった。
※この「ローレンス・オリヴィエとの結婚」の解説は、「ヴィヴィアン・リー」の解説の一部です。
「ローレンス・オリヴィエとの結婚」を含む「ヴィヴィアン・リー」の記事については、「ヴィヴィアン・リー」の概要を参照ください。
- ローレンス・オリヴィエとの結婚のページへのリンク