レヴァント・メソポタミア・アナトリア
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「土器」の記事における「レヴァント・メソポタミア・アナトリア」の解説
「en:Pottery Neolithic」、「en:Levantine pottery」、「en:Ubaid period」、「メソポタミア文明」、および「イスラームの陶芸」も参照 紀元前10500年頃から紀元前8500年頃にかけて、現在のシリア、イスラエル、ヨルダン、レバノンのそれぞれにまたがるレヴァント地方では、野生のオオムギやコムギを定期的に採集し、ヤギやガゼルなどを狩って生活を営む人びとが次第に増えていった(ナトゥフィアン文化(英語版))。ナトゥフィアン文化の人びとはやがて定住集落を営むようになり、紀元前8000年から紀元前7500年ころにはこうした生活様式がザグロス山脈南西の山麓域(現在のイラク北部やイラン南部)にも広がって、狩猟対象の動物や採集対象の植物を拡充していき、集落を形成していったと考えられる。 また、トルコ南東部のギョベクリ・テペは、石柱の立ち並ぶ巨石建造物、ヘビ、イノシシ、牡牛、ツル、クモなど野生生物を表現した数々の彫刻、人間をモチーフにした石像群などから成る遺跡で、発見当初は一大センセーションを引き起こした遺跡である。ギョベクリ・テベは、動植物のドメスティケーション(栽培化と家畜化)のごく初期段階にあった狩猟採集民が残した遺跡で、たくさんの労働力を動員して巨大な建造物を築くという行動や豊かなシンボリズムの突然の発露といった現象は、そこに認知能力の変化(精神的な「革命」)があったのではないかという推定を生み落とした。動植物のドメスティケーションは紀元前9500年以降、数千年の長い時間をかけて進行して完成したと考えられ、また、一地点というよりは「肥沃な三日月地帯」という広い一帯のなかで同時多発的に発生したとみる説が有力である。 紀元前7000年頃、こうした中から本格的な農耕牧畜生活が始まった。紀元前6500年前後には、イェリコ、ベイダ、ムンハタといったレヴァント地方に大規模な農耕集落が形成され、同じ頃、アナトリア高原のチュユヌではヤギ・ヒツジを飼育し、コムギのほかエンドウマメやカラスノエンドウ、レンズマメなどのマメ類の栽培がおこなわれるようになって、ここでは粘土をこねて乾燥させただけの土製品が出土した。西アジア最古の土器は、北メソポタミアから北レヴァントにかけてであり、年代としては紀元前7000年頃から紀元前6600年頃があてられる。主な遺跡は、ユーフラテス川中流域のテル・ハルーラ、アカルチャイ・テペ、メズラー・テレイラート、シリア西部のテル・エル=ケルク、シール、テル・サビ・アビヤド、チグリス川上流域のサラット・ジャーミー・ヤヌ、ハブール川沿いのテル・セクル・アル=アヘイマルなどである。原初期の土器は、「初期鉱物混和土器」(英語: Early Mineral Ware)と総称され、暗色系のものが多く、方解石や玄武岩の粒子を多く混和させた重い土器で、既に彩色文様を伴うものがあり、数は少ないが全体的に丁寧なつくりである。 紀元前6000年前後、アナトリアのチャタル・ヒュユクではさらに穀物と飼育動物の種類を増やしており、神殿の遺構が検出されていることが注目される。発掘調査では、ウシや女性を刻した浮彫彫刻(レリーフ)、火山の爆発や狩猟場面を描いた壁画などで内装が飾られていたことがわかった。チャタル・ヒュユクでは、きわめてふくやかな女性の土偶も出土しており、土器製造を伴う。土器はやがて、北部メソポタミアのジャルモ遺跡や東京大学が発掘調査をおこなったことでも知られるテル・サラサート(英語版)遺跡において、繊維をたくさん混ぜた粗製土器が大量に作られるようになった。テル・セクル・アル=アヘイマル遺跡では植物混和のものが8割以上に及び、以前に主流であった鉱物混和の土器は激減する。 紀元前5800年頃から紀元前5200年頃にかけてのハッスーナ期では、短頸壺と鉢を中心に、白い化粧土をかけるなどして色を明るくした器面に赤褐色の幾何学文様を描いた土器が特徴的である。ジャルモでは彩文土器も出土しており、平底の浅鉢形土器は古くからその存在が知られていた。かつての先進地域であったレヴァント地方はむしろイラク北東部やアナトリアと比較して、相対的に衰えがみられるようになった。 紀元前5500年頃から紀元前5200年頃にかけての文化はサマラ文化と称され、この時期には山麓方面へもいっそう農耕民が生活域を広げていった。そして紀元前5200年以降にはハラフ文化と称される農耕文化が栄えて、メソポタミア北部にはハラフ土器が普及していく。ハラフ期は紀元前4400年頃まで続き、幾何学的文様のほか、牛、鹿、豹、オナガー(アジアノロバ)、蛇といった動物、鳥、花、植物、人物などが描かれる。一方で周辺地域との交易も盛んとなって、ハラフ土器はヴァン湖の黒曜石やペルシア湾の貝などと交換されたことが解明されている。 ウバイド文化は、紀元前5300年頃(広義には紀元前6500年頃)から紀元前3500年頃までの長い時期で、農耕民の一部がメソポタミアの平野部に進出していく時期である。ウバイド文化期は4期に区分されるが、最終のウバイド4期になると実用的側面が強まって無文土器が増加する。後続するウルク期(紀元前3500年頃〜紀元前3100年頃)にはロクロ成形が始まった。また、型入れで大量生産されるようになり、アップリケ、指押し、刻線などで幾何学文様をつけ、把手付のものも増加する。社会文化の面ではウルク期より歴史時代に入り、ウルク期末期には国家組織のための基礎が完成する。古バビロニア王国の時代には、型押し成形による粘土製の神像が数多くみられるようになった。 アナトリアでは、紀元前3千年紀に黒色磨研の嘴形注口土器が盛んに作られ、この頃のトロヤ2層ではロクロ使用の開始が認められる。紀元前1000年以降のアナトリア東部ではウラルトゥ時代に赤色磨研土器が多く製作された。 ハッスーナ期の皿 イスラエルのヤルムーク文化(英語版)期の耳付壺 サマラ文化期の碗 ハラフ文化期の浅鉢 ハラフ文化期の皿 テル・ハラフ(シリア)出土の女性をかたどった土偶 ウバイド期の碗 ウバイド期の深鉢 ウバイド期の壺 ウルク期の土器類を含む生活用具 アナトリアの紀元前5250年〜紀元前5000年頃の壺形土器 アナトリア出土の黒色磨研の嘴形注口土器(紀元前2000年頃) トロイ遺跡(アナトリア)出土の把手付コップ形土器 ウラルトゥ出土の壺類
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