チベット動乱
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「チベットの歴史 (現代)」の記事における「チベット動乱」の解説
清末以来、反清、反中闘争を続けてきたカム地方の人々は、翌1956年より武装蜂起を開始、一時的には中華人民共和国の軍事警察機関の一掃に成功する。チベット動乱の勃発である。カム人民の抗中蜂起に対し、中国人民解放軍はただちに反撃を開始、戦火を避ける民衆や敗走する抗中ゲリラたちは、雪崩をうって、まだガンデンポタンの統治下で平穏を保っていた「西蔵」へ逃げ込んだ。カム地方出身の抗中ゲリラたちは、この地で初めて統一組織「チュシガンドゥク」を結成、1957年からはアメリカのCIAの支援も受けたが(CIAチベット計画)、故郷奪回に乗り出す力はなかったので、「西蔵」内の各地で人民解放軍の駐屯地や中華人民共和国の行政機関を襲撃する武力活動を展開した。 このような情勢の悪化に対し、ガンデンポタンは、抗中ゲリラによる政府保有の武器や食料の提供要求を拒否するなど、十七か条協定の枠組みを維持することで、かろうじて確保された「自治」をまもろうとつとめたが、1959年には事態は一層悪化、人民解放軍のダライ・ラマ14世に対する観劇招待を、ダライ・ラマ拉致の口実と疑ったラサ市民が夏の宮殿ノルブリンカ前に集結、人民解放軍による解散要求と砲撃など、混乱の中、ダライ・ラマ14世はラサを脱出した。中国の国務院総理周恩来は「西蔵地方政府」の解散を布告、これに対しダライ・ラマ14世は、国境を越える直前に「チベット臨時政府」の樹立を宣言し、インドへと亡命した。中国によるチベット政府の行政機構や正規軍の解体と支配体制の樹立は1960年ごろまでにほぼ完了した。カム地方の出身者を中心に結成された抗中ゲリラチュシ・ガンドゥクによる武力抵抗は、ネパール領のムスタンを拠点とし、そこからチベット各地に出撃する形で引き続き展開された。しかし米中国交回復にともない1972年に米国からの支援が停止、1974年、ネパール政府はムスタン基地を包囲して、抗中ゲリラに武装解除と解散を迫った。抗中ゲリラはダライラマの玉音テープを携えたチベット亡命政府の使者の説得に応じて武装解除してムスタンより退去、抗中武力抵抗はここに終焉を迎えた。 チベット動乱にともない最高指導者ダライ・ラマ14世、政府ガンデンポタンのメンバーらをはじめ多くの僧侶や一般農牧民たちがインドなどに亡命、十数万人から成る亡命チベット人社会を形成するにいたる。 1959年から1961年にかけヒマラヤ山脈の西方、および東方の二カ所において人民解放軍とインド軍の武力衝突が発生した。戦闘は、装備に勝る人民解放軍がインド軍を破って前進したのち、人民解放軍は、西部ではアクサイチン地区をそのまま確保、しかしソビエト連邦やアメリカなどの国際社会からの圧力を受けて東部ではインド側が国境として主張するマクマホンラインまで撤退する形で収束した(中印国境紛争)。 1965年に、西蔵自治区が成立。中国全土で数百万の死者を出したと言われる文化大革命期には極左の紅衛兵によって多くの寺院が破壊されるなど、文化遺産に深刻な被害が出た。さらに人民公社の導入など、中華人民共和国との一体化が進んだ。 チベットの現状については、記事「チベット問題」も参照。
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チベット動乱
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詳細は「チベット動乱」を参照 中国政府は宗教を排撃し、遊牧地であった土地を取り上げ、漢族の大量入植を進めた。このため、チベット人との軋轢が高まり、1956年、アムド、カム地方で抗中蜂起が全面的に勃発し、チベット動乱が始まった。 1956年末、中国の区分で四川省に所属する涼山、美姑、西昌、康定、西蔵所属で当時チャムド解放委員会管轄下のギャンダ・ゾン(江達)、芒康らによる第1次蜂起が起きる。中国軍は1957末に平定に成功。さらに反乱勢力10万人に人民解放軍6万を動員して鎮圧する。中国共産党発表によれば、20,000人を殲滅し、20,000人を逮捕した 1957年には、 ゴンボ・タシは、米国CIAの支援もうけ、東チベット人を中心とした反乱部隊チュシ・ガンドゥクを結成しゲリラ戦を開始する(カム反乱)。 1957年から1958年にかけて、バタン(巴塘)、維西、徳欽、中甸らによる第2次蜂起に対して中国軍は1958末に「平定」に成功。5,500人を「殲滅」(虐殺)した。 青海省における虐殺 1958年3月から8月にかけて、甘粛から青海にかけての42万平方キロにかけてチベット人130,000人が「反乱」を行った。中国軍は、うち110,000人を殲滅(つまり、虐殺)して平定した。また、青海省におけるチベット人・モンゴル人の遊牧民50,000人を逮捕した。この数字は青海省チベット・モンゴル人遊牧民総人口の10%にあたる。逮捕者の84%にあたる45,000人が誤認逮捕であった。拘留中に23,260人が死亡(正しく殺害の意味か…)、誤って殺害されたものが173人。宗教・民族分子259人、民族幹部480人が死亡。 1959年には、動乱がガンデンポタンの管轄領域(西蔵)にも波及し、同年3月17日、生命の危機を感じたダライ・ラマ14世はインドへ亡命し、チベット亡命政府を立てた。 1959年3月10日に勃発したラサ蜂起では三日間で10,000人-15,000人のラサ市民が死亡。 中央チベットの虐殺 1959年3月から1962年3月までに中央チベットにおいて、死亡・負傷・捕虜を含めて93,000人を殲滅、武器35,500丁、砲70問を鹵獲した(中央チベットの大虐殺)。 アムド地方ゴロク地区(中国の区分で青海省果洛州)では1956年に130,000人あった人口が1963年におよそ60,000人にまで減ったとされる。 中華人民共和国国務院はチベット独立軍を鎮圧後、「西蔵地方政府」を廃止し、西蔵の統治を「西蔵自治区籌備委員会」に委ねる。1966年、西藏自治区(チベット自治区)が発足。同1966年、文化大革命が波及し、紅衛兵ラサ進駐を開始して年長世代による宗教や信仰が糾弾された。
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