アメリカ合衆国下院議員と米英戦争とは? わかりやすく解説

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アメリカ合衆国下院議員と米英戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/09 05:48 UTC 版)

ジョセフ・デシェイ」の記事における「アメリカ合衆国下院議員と米英戦争」の解説

1807年6期務めたアメリカ合衆国議会下院議員最初任期に、無投票選出された。有能な演説家として知られていたが、演説回数多くなく、「多く考え、あまり喋らないのが」最善だと主張していた。第一次アメリカ合衆国国定銀行認証更新については、投資家多く外国人だったので反対した。特にイギリス王ジョージ3世大株主であるという事実を心配していた。ジョージ3世当時発狂瀬戸際にあると多くの者が考えていた。1811年結局国定銀行認証更新行わないことになった下院議員としての初期には、イギリスフランスからアメリカ領土を守るために適切な軍隊保有することを提唱したトーマス・ジェファーソン大統領1807年通商禁止法関連する法を支持したタカ派と見なされており、同じケンタッキー州から選出され下院議長務めていたタカ派指導者ヘンリー・クレイが、第12会期1811年1813年)の下院外交関係委員会委員にデシェイを選んだクレイ期待添い商船武装させる法案アメリカ陸軍正規兵の数を増やす法案ジェームズ・マディソン大統領軍務志願兵部隊受け入れることを認め法案など、下院提出され戦争遂行手段一貫して支持したメイコン法案1号には不満を表明し、「イギリスがこのアメリカ大陸カナダあるいはノバスコシア保持している」限り通称禁止制裁処置全て失敗する主張した。ただし、カナダ併合引き起こす金銭人的両面の高い費用認めて居た1812年6月4日イギリス対す宣戦布告賛成票を投じ米英戦争が公式に始まることになった。 デシェイは議会会期休会後にケンタッキー州戻ったアッパー・カナダ対すウィリアム・ハリソン作戦仕えるために、州知事アイザック・シェルビーによる志願兵呼びかけ応じた。デシェイは少将任官され、ケンタッキー州民兵第2師団となった。この3,500名の師団は、第2および第5旅団、第11連隊構成されケンタッキー州ニューポートオハイオ川岸で集結された。この師団ハリソン軍隊加わり1813年10月5日テムズの戦いでは、デトロイトかイギリス軍の撤退強制しイギリス同盟するインディアンをその左翼押しとどめてアメリカ軍勝利貢献した歴史家ベネット・H・ヤング拠れば、デシェイの昔からの友人ウィリアム・ウィットリーがこの戦闘前夜に死の予感感じており、そのライフル銃筒をデシェイに渡して、その愛のメッセージと共にウィットリーの妻に渡してくれるよう頼んだ。ウィットリーは翌日戦闘本当に死んだ。 デシェイは次の会期アメリカ合衆国下院議員務め再開したイギリスとの和平追求することが優先されアッパー・カナダ併合追求しないことや、アメリカ人水夫対すイギリス強制徴募無視するという決断落胆した戦争終わらせることになったガン条約には不満だった1813年遅くから1814年初めにかけて、議会ウィリアム・ハリソン最高司令官地位与えることを検討したとき、デシェイはそれに反対した。なぜなら、ハリソンテムズの戦い後でイギリス軍ヘンリー・プロクターの部隊追撃しないという判断下しアイザック・シェルビー執拗な督促があった後でやっとその判断下したからだった。議会北西方面軍功績対す感謝決議からハリソンの名前を外し議会金メダル授与保留するという決断下したのは、デシェイの反対が強い要因だった。ハリソンシェルビーもデシェイの発言内容否定し、この問題はデシェイが下院議員再選される可能性落としていたので、発言一部撤回した戦闘後オンタリオサンドウィッチ開かれた作戦会議ハリソン追撃慎重だった友人何人かに告げただけであり、追撃に関してハリソンシェルビーの間に意見不一致あったか自ら目撃したのではないと主張した。 デシェイは下院戻ってから次第保守的になり、アメリカ海軍拡大には一貫して抵抗した。またアメリカ合衆国陸軍長官ジェームズ・モンローが、平時に2名の常備軍維持する要請したことにも反対した。大きな常備軍維持することは、大きな連邦政府支持者増税する言い訳与えることになると論じ常備軍は6,000名でよいと提案した下院では連邦党民主共和党保守派連衡し、デシェイの提案賛成75票、反対65票で可決した。しかし、上院では法案修正が行われ、常備軍15,000名を要求した法案両院協議会掛けられ結局1万名の妥協案が成立した。 第14会期1815年1817年)では、1816年年金法に反対したことで、12人いたケンタッキー州選出議員の中で唯一のとなった。この法は同じくケンタッキー州選出リチャード・メンター・ジョンソン提案したものであり、議会年金修正し議会開会中に日当」6ドル支払代わりに年俸一律1,500ドル支払うというものだった。この案は選挙民の間で著しく不人気だった。法案賛成したケンタッキー州選出議員は、人気高かったジョンソンヘンリー・クレイ除き次の選挙議席失った彼等再選辞退したか、対抗馬敗れたかのどちらかだった。 デシェイは第15会期1817年1819年)には公共支出委員会委員長務めた1818年3月14日サウスカロライナ州選出議員ウィリアム・ラウンズが提案した内国改良建設資金連邦予算割り当てる権限議会与え法案対し反対票を投じた少数派になった。デシェイは1818年選挙には出馬しなかった。

※この「アメリカ合衆国下院議員と米英戦争」の解説は、「ジョセフ・デシェイ」の解説の一部です。
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