アメリカ合衆国下院議員の第1期
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「タデウス・スティーブンス」の記事における「アメリカ合衆国下院議員の第1期」の解説
1848年、スティーブンスはペンシルベニア州第8選挙区からアメリカ合衆国下院議員選挙に出馬した。ホイッグ党員集会では反対の声もあった。代議員の中にはスティーブンスが入党するのが遅かったので、指名を受けるべきではないと考える者もいた。奴隷制度に対するその姿勢を嫌う者もいた。スティーブンスは僅差で指名を得ることができた。この年は全国的にもホイッグ党に勢いがあり、テイラーが大統領に、スティーブンスはアメリカ合衆国下院議員に当選した。 この発言のどこにおいても個人的な非難をしないのが私の目的であります。私は如何なる人にも悪意を持たず、私が知っている如何なる獣にも、私が言及する過程で(民主党の)スカンクに対してもであります。南部を非難する気持ちはこれっぽっちもありません。その勇気と忠誠心を称賛します。酷く悪意に満ちたやり方にあっても、統合された前線を見せています。その息子たちは人間の絆に対して誠実であり、それがかれらの流儀だからです。しかし、北部、貧しく臆病で、雇われ人の召使である北部は、その守る側の統合された防御力を持っていませんが、人間の自由に立っています。南部の専制者を宥めるための犠牲になろうとしており、南部の反逆者と仲直りしようとしているのです。 1850年6月10日、逃亡奴隷法に関する下院討議におけるスティーブンスの演説 1849年12月にアメリカ合衆国議会が招集されたとき、スティーブンスもサーモン・チェイスなど新任の奴隷制度反対論議員と共に就任した。スティーブンスは、ケンタッキー州選出アメリカ合衆国上院議員ヘンリー・クレイが考案した1850年妥協について声を大きくして反対した。この妥協は北部と南部双方に勝利感を与えるが、メキシコから獲得したばかりの新領土の幾つかが奴隷州になる可能性を残していた。6月、まだ議論が続いているときに、スティーブンスは「この妥協という言葉が人権や憲法で保障される権利に適用されるのを恐れる」と述べていた。それでも逃亡奴隷法など妥協を作り上げる幾つかの法案が成立した。スティーブンスは特に逃亡奴隷法に問題があると考えた。アメリカ人の多くはこの妥協で部分的な平和がもたらされることを期待したが、スティーブンスはそれが「未来の反乱、解体、内乱を生む可能性の強いもの」になると警告した。 スティーブンスは1850年の選挙でも容易に指名され、再選された。これはその姿勢が妥協賛成派のホイッグ党の中にあって問題を生んでもなおさらのことだった。1851年、フィラデルフィアの連邦裁判所で反逆罪に問われた38人のアフリカ系アメリカ人とその他3人の裁判で、被告側弁護士の1人となった。被告たちはいわゆるクリスティアナ暴動に関与したとされていた。この暴動では逃亡奴隷法の令状を執行しようとしたことで、奴隷所有者を殺害する結果になっていた。アメリカ合衆国最高裁判所判事のロバート・グリーアが巡回裁判所判事としてこの事件を扱い、被告たちは殺人や暴動で有罪かもしれないが、その容疑で告発されてはおらず、反逆罪では無罪であるとして、陪審員に無罪を宣告するよう指示した。この世に知られた事件(さらには類似した事件)によって奴隷制度問題に関する二極化が進み、スティーブンスは北部の奴隷制度反対運動で著名な顔になった。 この傾向にも拘わらず、スティーブンスは政治的な問題を抱えていた。1851年12月のホイッグ党党員集会を退席した。このとき、1850年妥協の攻撃的な要素を撤廃しようと求めたスティーブンスに対して仲間が同意しなかったからだった。ただし、1852年大統領選挙の候補者としてウィンフィールド・スコットは支持した。スティーブンスはその政治的な反対論、奴隷制度に対する姿勢を嫌われたこと、また反逆罪裁判に参加したことにより、再選を求めてもうまくいかないと見られた。スティーブンスはその後継者を選ぶことだけを求めた。しかし、その選択はホイッグ党の指名争いで敗れた。
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