「トーキー」の成功
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1927年2月、ハリウッドの当時の大手映画会社5社(パラマウント、MGM、ユニバーサル、First National、セシル・B・デミルの Producers Distributing Corporation (PDC))がある合意に達した。この大手5スタジオは発声映画の互換性を保つために5社がひとつのプロバイダを選ぶことで合意したのである。そして、先駆者がどういう結果になっているかをじっくり検討した。同年5月、ワーナー・ブラザースは独占権を(フォックス・ケースのサブライセンスといっしょに)ERPIに買い戻してもらい、フォックスと同等の技術使用契約を新たに結んだ。フォックスとワーナーは発声映画について技術的にも商業的にも異なる方向へと向かっていた。フォックスはニュース映画や音楽劇に向かい、ワーナーは長編映画に向かっていた。ERPIは大手5スタジオと契約することで市場を独占しようと考えた。 この年、発声映画はあらゆる既知の有名人を利用して大々的に宣伝された。1927年5月20日、ニューヨークのロキシー劇場で同日早朝に大西洋横断飛行に旅立ったチャールズ・リンドバーグの離陸のニュース映画をフォックスのムービートーンで上映した。また6月にはリンドバーグが帰還し、ニューヨークやワシントンD.C.で歓迎される様子を同じくフォックスの発声ニュース映画で伝えた。これらは今日までに最も賞賛された発声映画とされている。フォックスは同年5月に台詞を同期させたハリウッド初の短編劇映画 They're Coming to Get Me(主演はコメディアンの Chic Sale)を公開している。フォックスは『第七天国』などの無声映画のヒット作を公開した後の9月23日、ムービートーン初のオリジナル長編『サンライズ』(監督F・W・ムルナウ)を公開した。『ドン・ファン』と同様、フィルムのサウンドトラックには音楽と効果音が入っており、群衆シーンでは特に誰のものともわからない声も入っていた。 そして1927年10月6日、ワーナー・ブラザースの『ジャズ・シンガー』が公開された。国内と海外を合わせた興行収入は262万5千ドルであり(ワーナーの前作より100万ドルも多い)、中堅クラスのスタジオとしては破格の大成功だった。ヴァイタフォンで製作された映画は、『サンライズ』や『ドン・ファン』と同様に音楽と効果音が基本で、撮影時の録音は使っていない。ただしアル・ジョルソンが映画の中で歌うシーンがあるが、その歌と台詞はセットで録音されたもので、他に母親とのやりとりもその場で録音されたものだった。そのため、セット内の自然な音が聞こえる。『ジャズ・シンガー』のヒットは当時既に大スターだったジョルソンの人気によるところが大きく、初の部分的同期音声を使った映画だという点が大きく寄与したとは言えないが、その収益は映画産業にとってそのテクノロジーに投資する価値があることを十分に示していた。 商業発声映画については、『ジャズ・シンガー』のヒットの前後で状況は特に変化しなかった。(落伍したPDCを除く)4大スタジオとユナイテッド・アーティスツといった大手が映画製作現場と劇場のための機器を更新すべくERPIと契約するのは1928年5月以降のことである。当初、ERPIは全ての契約劇場をヴァイタフォン対応にし、その多くでムービートーンの上映もできるようにした。両方のテクノロジーにアクセス可能になっても、多くのハリウッドの映画会社はまだ発声映画を製作しなかった。ワーナー・ブラザースを除くスタジオは部分トーキーですらなかなかリリースしようとしなかったが、低予算指向の Film Booking Offices of America (FBO) が『ジャズ・シンガー』から8カ月後の1928年6月17日にやっと『夢想の犯罪 (The Perfect Crime) 』を公開した。FBOはウェスタン・エレクトリックと競合するゼネラル・エレクトリックのRCA部門が実質的に支配しており、同社は新たなサウンド・オン・フィルム方式RCAフォトフォン(英語版)を売り込もうとしていた。可変密度方式だったフォックス・ケースのムービートーンやド・フォレストのフォノフィルムとは異なり、RCAフォトフォンは可変領域方式であり、音声信号を最終的にフィルムに焼き付ける段階を改良したものである。サウンド・オン・フィルム方式では、音声信号を電灯の光の強さに変換し、その光を使ってフィルムに信号を焼き付ける。可変密度方式はフィルム上の帯の明暗の変化で音声信号の変化を表し、可変領域方式ではその帯の幅を変化させる。同年10月までに、FBO-RCA同盟はハリウッドで最新のスタジオRKO創設にこぎつけた。 その間、ワーナー・ブラザースは『ジャズ・シンガー』ほどではないが高収益な3本のトーキーを公開した。同年3月には『テンダーロイン (en) 』が公開されている。この映画をワーナーは全ての台詞の音声が入っていると宣伝したが、台詞があるのは88分のうち15分だけだった。4月には 『祖国の叫び (Glorious Betsy)』、5月には The Lion and the Mouse(こちらは台詞部分が31分ある)を公開した。1928年7月6日には初の完全トーキー長編映画 『紐育の灯』 が公開された。ワーナーがこの映画にかけた制作費はわずか2万3千ドルだったが、興行収入は125万2千ドルで50倍以上の利益を得た。9月には再びアル・ジョンソンを主演に起用した部分トーキー『シンギング・フール (en) 』を公開し、『ジャズ・シンガー』の倍の収益を得た。このジョルソンの2本目の映画は、ミュージカル映画が歌を全国的にヒットさせる力があることを示した。9カ月以内にジョルソンの楽曲 "Sonny Boy" はレコードが200万枚、楽譜が125万枚売れた。同じく1928年9月には ポール・テリー が同期音声つきアニメ映画 Dinner Time を公開した。これを見たウォルト・ディズニーはすぐさま発声映画の製作にとりかかり、ミッキーマウスの短編映画『蒸気船ウィリー』を公開した。しかし、これらの短編アニメーション作品が公開される2年前の1926年にマックス・フライシャーがセリフと映像を完全にシンクロさせた短編トーキーアニメーション映画『なつかしいケンタッキーの我が家(原題:My Old Kentucky Home)』をすでに公開していた。 ワーナー・ブラザースがトーキー人気で莫大な利益を稼ぎ始めたのを見て、他のスタジオも新テクノロジーへの転換を急ぎ始めた。最大手のパラマウントは9月後半に初のトーキー『人生の乞食 (en) 』を公開したが、台詞はほんの少ししかなかった。それでも新技術の力を認識するには十分だった。パラマウント初の完全トーキー『都会の幻想 (en) 』は11月に公開となった。"goat glanding" と呼ばれる工程が広く採用された。これは、無声映画として撮影した映画(公開済みの場合もある)に後から台詞や歌を追加するものである。ほんの数分間の歌を加えただけでその映画はミュージカルに生まれ変わる。グリフィスの『夢の街』も基本的には "goat gland" だった。時代の流れは急速に変化し、1927年には単なる「流行」だったトーキーは1929年には標準的手法となった。1928年12月にフォックスが全編トーキーの西部劇『懐しのアリゾナ』を、翌1929年の1月にはMGMが全編トーキーのミュージカル映画『ブロードウェイ・メロディー』を発表した。『ジャズ・シンガー』公開から16カ月後の1929年2月、大手スタジオで最後までトーキーを製作していなかったコロンビア ピクチャーズが初の部分トーキー長編 Lone Wolf's Daughter を公開した。同年5月末、ワーナーの世界初の完全カラー/完全トーキー長編『エロ大行進曲 (en) 』が公開された。アメリカでは都市部を除いた大多数の映画館に音を出すための設備がまだ設置されておらず、スタジオ側もトーキーが全ての人々に受け入れられると確信していたわけではなかったため、1930年代中ごろまでのハリウッド映画はトーキー版とサイレント版の2バージョンで製作されることが多かった。当時誰も予想していなかったが、無声映画はその後すぐに過去のものとなっていった。ハリウッド製の最後の無声映画としては、Hoot Gibson の西部劇 Points West がある。これはユニバーサルが1929年8月に公開した。
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