お蔭参り
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お蔭参りが与えた影響
お蔭参りに行く者はその者が属する集落の代表として集落から集められたお金で伊勢に赴いたため、手ぶらで帰ってくる事がはばかられた。また、当時、最新情報の発信地であったお伊勢さんで知識や技術、流行などを知り、見聞を広げるための旅でもあった。お蔭参りから帰ってきた者によって、最新のファッション(例:最新の織物の柄)や農具(例:新しい品種の農作物がもたらされる。箕に代わって、手動式風車でおこした風で籾を選別する唐箕が広まる)、音楽や芸能(伊勢音頭に起源を持つ歌舞が各地に広まる)が、実際の品物や口頭、紙に書いた旅の記録によって各地に伝わった。これが餞別や土産の始まりであるという説もある。
また、お蔭参りによって、地域と階層を超えて人々が集まり、伊勢参りという共通の体験を得たことが、近世幕藩体制を超えて「日本人」や「日本」という民族意識・国家意識を醸成することに繋がったと、複数の研究者により指摘されている。日本宗教史研究者の西垣晴次は、「お蔭参りにおいて、人々が日本全国から地域と階層を超えて集まり、全く知らない土地の人々と出会い、共通の体験を持ち、他国の稲の籾を交換するなどしたことは、「日本人」という共通の意識をいだかせたものである」と評価している[50]。また、日本近世史研究者の鎌田道隆は「幕藩体制の時代に下層庶民までもが日本各地を見聞し、沿道の人々も見知らぬ土地の人と交流し、情報を交換しあった経験は、近代的な民族意識の準備をなしたものと評価する必要がある」と評している[51]。
変遷
(年号のみ記載のあるものは、厳密にはお蔭参りではないが、群参の顕著な年である)
中世
お蔭参りの前段階として、集団参詣が数回見られる。
前期
- 1638年(寛永15年)
- 1650年(慶安3年)
- 慶安のお蔭参りは、記録が少なく、詳しいことはわかっていない。呼称も、当時の資料では「お蔭参り」ではなく「抜け参り」が用いられている。『寛明日記』によると、江戸の商人が流行らせたと言う。箱根の関での調べによると、正月下旬から3月上旬までで一日平均500-600人が参詣し、3月中旬から5月までで平均2100人が参詣したという[52]。参詣するものは皆「白衣」を着ており、社寺の巡礼という風習を受け継いだ側面があると考えられる[52]。
- 参詣者:
- 当時の日本総人口:1781万人(1650年)
- 発生地域:江戸
- 期間:1月~5月
- 1661年(寛文元年)
- 1701年(元禄14年)
- 1705年(宝永2年)
- 宝永のお蔭参りは、「お蔭参り」という呼称はまだ用いられていないものの、京都と大坂を中心に、畿内一円から四国、東は江戸まで及ぶものとなったことや、沿道で参宮者への施行が行われたこと、人々の社会観に新しい展開をもたらしたことから、本格的なお蔭参りの始まりであるとされる[53]。参宮者の数は2ヶ月間で330万~370万人に上った。本居宣長の『玉勝間』の記載によると、4月上旬から、京都の人々を中心に1日に2、3千人が松阪を通り、4月中旬には1日に10万人を超えた。5月に入ると大坂にまで波及し、5月中旬には最高値となる1日23万人を数えた[54]。この間の平均値は、1日7万人程度であった[54]。元禄期以降盛んになっていた伊勢参りにおいては、その中心はあくまで成人男性であったが、この宝永のお蔭参りでは女性や子供の割合が高くなっている[55]。元禄期以降の経済成長によって、庶民経済が向上し伊勢参り盛んになる一方、格差が生じて貧しい生活を強いられ、参宮が困難な階層も生じてきたが、女性や子供など、そのような日常において参宮の機会を得られない人々が、突発的に参詣に向かったことで生じたのが、お蔭参りであると考えられる[53]。このため、宝永のお蔭参りには後のような享楽的現象は見受けられず、伊勢参りへの信仰心の強さが根底にある[53]。
- 参詣者:330万~370万人
- 当時の日本総人口:2769万人(1700年)
- 発生地域:京都
- 期間:4月〜5月
- 1718年(享保3年)
- 1723年(享保8年)
- 1730年(享保15年)
- 1748年(寛延元年)
- 1755年(宝暦5年)
中期
- 1771年(明和8年)
- 「お蔭参り」の語は、この明和のお蔭参りから用いられるようになった[56]。森壺仙の『いせ参御蔭之日記』によると4月11日、本居大平の『おかけまうでの日記』によると4月7日、宇治から女・子供ばかりの集団が仕事場の茶山から無断で離れて、着の身着のままやってきたのが明和のお蔭参りの始まりと伝える[56]。参宮者数は日に増して上昇し、4月末には大坂からのお蔭参りが発生し、5月には若狭、近江、尾張、越前、美濃、阿波、備前に広がった。6月には安芸、長州、備中、讃岐、伊予、淡路、丹波、出雲、石見、東は三河、伊豆、相模までお蔭参りの範囲が広がった。最終的には、西は九州、東は関東まで範囲が広がり、日本民族のるつぼのように諸国の人々が街道筋を行き交った[56]。
- ピーク時には地元松阪では、自分の家から道路を横切って向かいの家に行くことすら困難なほど大量の参詣者が町の中を通っていった、と当時の日記にかかれている。また、『いせ参御蔭之日記』には、大坂では奈良へ抜ける玉造の当たりに7万とも8万とも言われる人が行き交い大混雑となったとあり、また、奈良の暗峠周辺では、当たりの宿屋が全て満員となり、身分の高い者ですら外で野宿したり、食事や水を取ることができず倒れる者も多かったと記録されている[56]。このような状況の中で、 街道沿いの豪商らによる「施行」も盛んに行なわれた。道中での銭、草鞋、食事、提灯、油、船の提供のほか、元気な若者数百名を選んで足腰の悪い老人を運ばせたといったことも記録されている[56]。無一文で出かけた子供が、銀を持って帰ってきたといった事もあったという。初めは与える方も宗教的な思いもあって寄付をしていたが、徐々にもらう方ももらって当然と考えるようになり感謝もしなくなって、中にはただ金をもらう目的で参詣に加わる者も出てきた。また、施行を行う側も、大々的に自らの行為を告知し、売名的な目的を持つ例もあらわれた[56]。また、お蔭参りでは迷い人も多発し、松阪や宇治山田など各地ではぐれ人尋ね所ができたが、町の人などが無報酬で宿屋などを巡って人探しを行い、7、8割は探し当てることができたという[56]。
- 『おかけまうての日記』によれば、参詣者らは「おかげでさ、ぬけたとさ」と囃しながら歩いた[56]。集団ごとに幟を立てていたが、初めは幟に出身地や参加者を書いていたものが、段々と滑稽なものや卑猥なものを描いたものが増えてきたという[56]。お囃子も、老若男女がそろって卑猥な事々を並べ立てるようなものになった[56]。
- 明和のお蔭参りの特徴は、はじめは宝永のお蔭参りと同様に、女性や子供など社会的に弱い立場の者を中心にした熱心な信仰に基づく旅であったのが、次第に旅自体の楽しみや参宮の賑わいに惹かれての旅立ちも増え、経済的に豊かな立場の人々も参宮に加わるようになったことにある[56]。
- 1803年(享和3年)
後期
- 1830年(文政13年 / 天保元年)
- 文政のお蔭参りでは、60年周期の「おかげ年」が意識されていた。前回のお蔭参りから60年に当たるのは1831年(天保2年)であったが、おかげ年が意識されお蔭参りの期待が高まる中で、前年に式年遷宮があったことや、豊作であったことなどから、1年早い1830年(文政12年)にお蔭参りが始まった[57]。四国の阿波国で6、7歳の子供らが抜け参りを始め、それを制止しようとした大人たちが制止しきれず、一緒に参詣したことが文政のお蔭参りのはじまりとなった[58]。文政のお蔭参りでは、参宮者数が増大し、範囲も西は九州、東は東北の一部にまで広がったと言われ、大規模な国民運動となった[51]。
- 『浮き世の有りさま』所収の「御蔭参耳目第一」によると、参宮者が大群衆となって押し寄せてくる大坂や奈良では大混雑となり、街道や宿屋では十分な対応ができなかったという[59]。また、宮川のあたりも大混乱となり、当時は橋がなかったため、川止めになると数万人が滞留し、船の転覆事故なども相次いだ[59]。道中では、宝永の時と同じように施行が行われ、お伊勢参りの人は参宮者の証として柄杓を持つようになった[60]。柄杓は、参詣の際に外宮の北門で置いていくということが流行った。享楽の度合いも高まり、男女や老若を入れ替えた仮装のような出で立ちで参宮する例も多く見られ、町の祭礼などに似た賑やかさを思わせるものであった[51]。他方で参宮者の増加に伴い事故や事件なども多発するようになり、道中で仲間とはぐれて病気にかかったり、食べ物が手に入らず飢え死にしたり、女は駕籠屋に騙され遊女に売られたりする事件も起き[61]、参宮を果たすことができず途中で引き返す者も多くあった[62]。
- 1855年(安政2年)
末期
明治に入り、明治天皇が伊勢神宮へ行幸したのをきっかけに伊勢神宮の性質が変容し、さらに、明治政府が御師の活動を禁じたために、民衆の伊勢神宮への参拝熱は冷めてしまった。『おかげ年』にあたる明治23年(1890年)の新聞には、「お蔭参りの面影もなし」という内容の記事が掲載された(NHK教育テレビ 『知るを楽しむ 歴史に好奇心』 10月放送分より)。
お蔭参り(抜け参り)に参加した著名人など
- おかげ犬
- 病気などでお参りができない場合、代わりに飼い犬が「おかげ犬」としてお参りした。また、おかげ犬の世話をするとご利益があるとされた[63]。
注釈
出典
- ^ a b 鎌田道隆『お伊勢参り 江戸庶民の旅と信心』中公新書(2013)62-63頁
- ^ 西垣晴次『お伊勢まいり』岩波新書(1983),28頁
- ^ a b 西垣晴次『お伊勢まいり』岩波新書(1983),43-45頁
- ^ 新城常三『社寺と参詣』至文堂(1960),78-79頁
- ^ 新城常三『社寺と参詣』至文堂(1960),97頁
- ^ 新城常三『社寺と参詣』至文堂(1960),79頁
- ^ a b 新城常三『社寺と参詣』至文堂(1960),80頁
- ^ 河合正治『中世前期の伊勢信仰』雄山閣(1985),88-89頁
- ^ 新城常三『社寺と参詣』至文堂(1960),90-91頁
- ^ 新城常三『社寺と参詣』至文堂(1960),82-83頁
- ^ 新城常三『社寺と参詣』至文堂(1960),108頁
- ^ 新城常三『社寺と参詣』至文堂(1960),119頁
- ^ 新城常三『社寺と参詣』至文堂(1960),114頁
- ^ 新城常三『社寺と参詣』至文堂(1960),131頁
- ^ 新城常三『社寺と参詣』至文堂(1960),136頁
- ^ 鎌田道隆『お伊勢参り 江戸庶民の旅と信心』中公新書(2013)32-33頁
- ^ 西垣晴次『お伊勢参り』岩波新書(1983),168頁
- ^ 鎌田道隆『お伊勢参り 江戸庶民の旅と信心』中公新書(2013)70頁
- ^ 鎌田道隆『お伊勢参り 江戸庶民の旅と信心』中公新書(2013)79頁
- ^ a b 新城常三『社寺と参詣』至文堂(1960),153頁
- ^ 西垣晴次『お伊勢参り』岩波新書(1983),174-178頁
- ^ 新城常三『社寺と参詣』至文堂(1960),155頁
- ^ 新城常三『社寺と参詣』至文堂(1960),156頁
- ^ 鎌田道隆『お伊勢参り 江戸庶民の旅と信心』中公新書(2013)44-47頁
- ^ a b 新城常三『社寺と参詣』至文堂(1960),152-153頁
- ^ a b 鎌田道隆『お伊勢参り 江戸庶民の旅と信心』岩波新書(2013),36頁
- ^ 新城常三『社寺と参詣』至文堂(1960),144頁
- ^ 西垣晴次『お伊勢まいり』岩波新書(1983),151-154頁
- ^ 鎌田道隆『お伊勢参り 江戸庶民の旅と信心』岩波新書(2013),39頁
- ^ a b 新城常三『社寺と参詣』至文堂(1960),147頁
- ^ 鎌田道隆『お伊勢参り 江戸庶民の旅と信心』岩波新書(2013),36-37頁
- ^ 新城常三『社寺と参詣』至文堂(1960),129頁
- ^ 新城常三『社寺と参詣』至文堂(1960),92-93頁
- ^ 新城常三『社寺と参詣』至文堂(1960),98頁
- ^ 新城常三『社寺と参詣』至文堂(1960),100頁
- ^ 新城常三『社寺と参詣』至文堂(1960),128頁
- ^ 新城常三『社寺と参詣』至文堂(1960),128-129頁
- ^ 西垣晴次『お伊勢まいり』岩波新書(1983),113頁
- ^ 河合正治「伊勢神宮と武家社会」『伊勢信仰Ⅰ』雄山閣(1985),87-89頁
- ^ 河合正治「伊勢神宮と武家社会」『伊勢信仰Ⅰ』雄山閣(1985),89-90頁
- ^ 西垣晴次『お伊勢まいり』岩波新書(1983),114-115頁
- ^ 新城常三『社寺と参詣』至文堂(1960),103頁
- ^ 新城常三『社寺と参詣』至文堂(1960),109頁
- ^ 新城常三『社寺と参詣』至文堂(1960),126頁
- ^ “神宮の歴史・文化”. 伊勢神宮. 2020年11月12日閲覧。
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- ^ a b c d e f g h i j k 鎌田道隆『お伊勢参り 江戸庶民の旅と信心』岩波新書(2013),82-99頁
- ^ 鎌田道隆『お伊勢参り 江戸庶民の旅と信心』岩波新書(2013),99-100頁
- ^ 鎌田道隆『お伊勢参り 江戸庶民の旅と信心』岩波新書(2013),100頁
- ^ a b 鎌田道隆『お伊勢参り 江戸庶民の旅と信心』岩波新書(2013),107-108頁
- ^ 鎌田道隆『お伊勢参り 江戸庶民の旅と信心』岩波新書(2013),111頁
- ^ 鎌田道隆『お伊勢参り 江戸庶民の旅と信心』岩波新書(2013),104頁
- ^ 鎌田道隆『お伊勢参り 江戸庶民の旅と信心』岩波新書(2013),107頁
- ^ “首から巾着、飼い犬を伊勢参りの「おかげ犬」に…想定超えた人気ぶり”. 読売新聞オンライン (2022年5月6日). 2023年11月3日閲覧。
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