伊勢の御師
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神宮御厨における在地領主の伸長に伴って、御厨からの年貢の滞納が頻発するようになったため、望みを祈祷して対価を得はじめたのが、伊勢神宮の御師と檀那の関係の始まりである。荘園制が崩壊して御厨からの収益が断たれ、神宮経済の基盤が御厨からの収益から参宮者のご祈祷料や宿泊料へと基軸が移る中世後期には、御師の活動は本格化し、御厨などの土地関係から離れ、広く全国の人々と師檀関係を結んでいくようになった。その担い手も、当初は「神人(じにん)」と呼ばれる荒木田や度会姓を持つ中下級神主層であったが、中世後期には、代官として在地の人々との接触に慣れてきた「神役人(じやくにん)」と呼ばれる伊勢の町衆層に移り変わった。御師は、各地の伊勢講をにぎり、伊勢講員との間に師檀関係を結んで檀家を広げていったが、室町時代には在地領主などの武士層から、より広い階級が伊勢御師の檀家となっており、戦国時代には大名と師檀契約を結んでその領内の人々を自らの檀家とする御師も現れ、伊勢信仰が拡張していった。安土桃山時代には、遠方の九州豊後において、姓を持たないような下層の農民にまで御師との師檀関係があることが確認できる。そして、近世に入ると御師の活動はさらに広がり、御師の数は最盛期には内外宮の御師合わせて800軒を超える数となり、檀家数は安永6年(1777年)の『外宮師職壇方家数改帳』によると、当時の総戸数の89%に当たる約420万戸もの数を数えるに至っており、ほぼ全戸に伊勢御師との師檀関係が及んだ。 御師の活動は、数名ずつのグループに分かれて各地に散らばって農村部で神宮大麻や伊勢暦、その他伊勢の土産物などを配り、神宮の神威を説いて参宮を勧めたり、豊作祈願を行ったりするものであり、その年に収穫された米を初穂料として受け取る事で生計を立てていた。伊勢神宮の神田には全国から稲穂の種が集まり、参宮した農民は品種改良された新種の種を持ち帰った。御師は、檀家の巡回に先駆けて、その村の村役人などに手紙を出してその旨を事前に連絡し、巡回する予定を告知し、伊勢講の「総代」「世話人」「帳元」と呼ばれる役職の者が、来村した御師や手代の応対に当たり、その他初穂や祈祷に関する御師との往来事務に当たった。 伊勢に旅立った者は、伊勢滞在時に大抵、自分達の集落を担当している御師のお世話になっていた。参宮者は、伊勢に到着する予定の数日前に、事前に担当の御師に手紙を出して到着予定日を告知し、松阪や小俣のあたりに着くと、御師は手代をやって参宮者を出迎え、宮川を渡ると駕籠で宿屋となる御師邸まで送迎した。御師は伊勢参拝に来る人をもてなすため、自分の家で宿屋を経営している事が多かった。御師の宿屋では、盛装した御師によって豪華な食器に載った伊勢や松坂の山海の珍味などの豪勢な料理や歌舞でもてなし、農民が住んでいる所では使ったことがないような絹の布団に寝かせる、など参拝者を飽きさせないもてなしを行った。また、神楽料を払うことができる場合には、湯立神楽を行い参拝者の祈願を行った。そして、伊勢神宮や伊勢観光のガイドも勤め、参拝の作法を教えたり、伊勢の名所や歓楽街を案内して回った。この時、豊受大御神が祀られている外宮を先に参拝し天照大御神が祀られている本殿の内宮へ向かうしきたりで、外宮先祭という。
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