伊勢信仰の発展
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 02:18 UTC 版)
近世に入ると、伊勢信仰は一層発展する。その背景の一つには、各村で形成された伊勢講がある。伊勢講とは、伊勢信仰を持つ複数の人々が集まって参詣のための費用を出し合い、講員の中からくじ引きで選ばれた人が代参をするための集まりのことである。その史料上の所見は、京都の中流貴族山科教言が著した日記『教言卿記』の応永14年(1407年)条に「神明講」とあるものである。伊勢講は次第に農民層の間でも結成されるようになり、治安の回復や関所の撤廃、輸送組織の発達など交通事情が大幅に改善する江戸時代に入ると、参宮の機運が高まり、郷村制の発達とともに伊勢講が一般化し、全国に広がっていった。伊勢参宮のための積立費用の支出は村の公的な支出を記した帳面に記され、伊勢御師へ渡す初穂料は、山手米、判銭などと並んで村の租税の一環として、無高の者も含めて村民の石高ごとに所定の初穂料を徴収することが定められているなど、伊勢講は村全体で公的に構成されるようになっており、近世には伊勢講はほぼ全国の村に形成されていた。伊勢講は、講親や講元などと呼ばれる講のリーダーが選ばれ、年に数回程度講員同士の親睦も兼ねた寄り合いが行われて代参の日程などについて話し合われ、代参は主に農閑期にあたる正月から4月にかけて集中して行われた。伊勢講への加入期間が一定程度長ければ、すべての講員が一生に一度は伊勢神宮に参詣できる仕組みとなっており、数年に一度は全員で参拝する総参りを行うなど、講員全員が楽しめるように各講で工夫がされていた。伊勢講に加入できたのは、代参費用を支払うことができる本百姓などの正規の村民であり、下男、召使い、子供などの下級階層は認められなかった。そこで、彼らは主人に無断で家を飛び出し、伊勢神宮へと向かう抜け参りによって参宮を目指した。江戸時代には、伊勢参宮に限っては無断で抜け出したとしても罪悪視されず認められる風潮があり、伊勢神宮側も1626年の『伊勢大神宮神異記』で抜け参りを止めた主人に神罰が下る話を集めるなど、抜け参りを推奨した。 伊勢の御師は、各村の伊勢講を握り、伊勢講の講員を中心に師檀関係を結んで自らの檀那を拡大していったため、先述の通り伊勢講が全土に展開した江戸時代においては、伊勢神宮の御師との師檀関係はほぼ全ての国民に浸透し、御師が檀家に配った神宮大麻の頒布数に関しては、安永6年に438万9549体に及び、御師の檀家数も安永年間に約420万戸と記録されている。これらは当時の全世帯の9割に該当する数字であり、実に当時の全世帯の9割が伊勢神宮の御師と師檀関係を結んでいたことになる。御師は、全国に「伊勢屋」「お伊勢宿」などと呼ばれた出先機関を設け、先達や家来とともに年に1回から3回程度村々を巡回して檀家をめぐり、神宮大麻、伊勢暦、薬、白粉、帯、伊勢茶、海苔、熨斗、扇などの土産物を渡し歩いて、檀家から初穂料を受け取りつつ、神宮の神威を説き参宮を勧めた。そして、御師は参宮してきた檀家の人々に対するもてなしも最大限を尽くした。伊勢参宮者は、伊勢本街道や伊勢別街道を通り、松阪や小俣町のあたりで御師の手代から送迎を受け、宮川を無償の運賃で渡り、宮川を渡ると駕籠で出迎えを受けて、宿泊先となる御師の邸宅へと向かった。そして、御師邸で御師は、酒に伊勢海老や鯛、鮑など伊勢の珍味を用いた豪勢な食事を提供し、立派な羽二重の布団を敷いてもてなし、太々神楽もあげ、伊勢両宮のほか朝熊や二見などの名所旧跡の案内も行い、「あこがれの伊勢参宮」を演出することで、伊勢信仰を広げた。このように、江戸時代には御師の介在による庶民の伊勢神宮の参詣ルートや参詣方式が整備された。御師にとっては檀那からの返礼が主要な収入源でもあったことから積極的に布教活動を進め、しばしば同一の檀那を複数の御師が競合する例も見られるほど、布教に熱心であった。近世に入り伊勢参宮者が増加すると、これに伴い御師の数も増加し、享保9年(1724年)には外宮の御師数は615家、内宮の御師数は記録のある正徳年間の頃に141人を数えている。 このようにして、近世に入り伊勢信仰が一層拡大したことで、参宮者の数も近世に入り急増した。江戸時代初頭にはすでに年間2、3万人の参宮者があり、江戸時代中期以降には平均して例年40万人前後、少ない年でも20-25万人の参宮者があったと推定されている。さらに、神札の降下を契機に、60年周期で爆発的に抜け参りが流行して伊勢参宮者が急増する「お蔭参り」が江戸時代を通じて見られたが、このお蔭参りでは、宝永のお蔭参りで362万人、明和のお蔭参りで207万人、文政のお蔭参りで476万人が参拝するなど、膨大な数の人々が伊勢神宮へと赴いた。参宮者の集団は、お伊勢参りの証である笠、わらじ、柄杓、旗を身につけることで、伊勢へ参る街道筋において富裕者や有徳者などから食事や宿の提供(施行)を受けることができ、無事に伊勢までたどり着くことができた。伊勢まで赴いた人々は、宮川や二見ヶ浦で心身を清めた後、茶店の並び立つ中河原から外宮の域内に入り、岡本から古市・中之地蔵を通り、牛谷坂からおはらい町に至り、宇治橋を渡って内宮へと及んだ。外宮と内宮の間にある古市には、遊郭や芝居小屋などが立ち並んでおり、少なくない数の参詣者が古市を目当てにして伊勢まで赴いた。また、江戸時代中期以降は伊勢参りが「伊勢大和参り」とも称されるようになったように、伊勢参宮者は伊勢神宮への往路または復路で大和国をはじめとし日本各地の名所や旧跡を巡ることが一般的であった。お伊勢参りでは、人々は伊勢神宮まで至る道中も醍醐味としており、道中における様々な地域や人との出会いも旅の一環と考えていた。
※この「伊勢信仰の発展」の解説は、「伊勢神宮」の解説の一部です。
「伊勢信仰の発展」を含む「伊勢神宮」の記事については、「伊勢神宮」の概要を参照ください。
- 伊勢信仰の発展のページへのリンク