伊勢信仰の成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 02:18 UTC 版)
このように平安初期まではあくまで天皇や貴族、都の住民などを中心とする信仰しか成立しておらず、庶民層や東国まで神宮の信仰が広がることはなかった。この状況が変わり始めるのが、律令制が弛緩して荘園制が成立する平安時代中期以降である。もともと、伊勢神宮は神戸や神田、神郡からの年貢を経済基盤としていたが、律令制度の崩壊と荘園制の成立に伴い、こういった経済基盤が揺らぎ始めた。そこで、伊勢神宮では11世紀ごろから新たに役夫工米制度が生じた。これにより、神宮の下級神職である権禰宜が役夫工米使となって各地に成立した荘園に在庁官人と共に入り込み、権門勢家や有力寺社の荘園であっても不輸不入の特権を無視して徴税を行うことが許された(徴税を担当した神職を口入神主と称する)。この制度により、各荘園において在地の支配者として年貢の納入などを行っていた田堵、名主、下司、開発領主などの豪農層や武士団が伊勢神宮を権門勢家を上回る権威として認識するようになった上、徴税に当たっては口入神主から神宮の神威が説かれたり、伊勢神宮への祈願を取り次いで貰ったりしたことから、土豪層において伊勢信仰が広がり、伊勢神宮を本所と仰いで領地を寄進する例も増えた。こういった上級武士層の伊勢信仰は、元寇における神風伝説などにより、鎌倉時代中期以降御家人や地頭級武士層にも広がり、彼らが強い影響力を持った農村にも次第に伊勢信仰が浸透した。また、伊勢神宮に寄進された領地は神宮御厨と称され、年貢が神宮へ納められたが、この御厨に伊勢神宮の神を勧請して天照大御神や豊受大神を祭神とする神明神社が建立されるようになったことも、さらに東国を含む全国の神宮領内の民衆に伊勢信仰が広がる要因の一つとなった。 さらに、伊勢信仰に先行して庶民に広がっていた熊野信仰も伊勢信仰の拡大を手伝った。熊野大社には、「蟻の熊野詣で」と呼ばれるほど人々が大挙して参拝していたが、この際に伊勢路を通ると、必ず伊勢神宮を通ることになり、それにより伊勢神宮に立ち寄る人も増加した。熊野大社は、早くから浄土信仰と結びつき三山が浄土とされたこともあって、僧徒の参拝も積極的に受け入れていたため、もともと仏法を忌避していた伊勢神宮も僧徒の参拝を認めるようになり、中世には重源、貞慶、叡尊、無住、一遍、虎関師錬、後深草院二条などの僧侶や出家者が伊勢神宮に参拝し、手厚くもてなされている。このような仏教者の伊勢信仰の高まりにより、両宮を金剛界・胎蔵界とみなす両部神道など神仏習合系の神道説が形成されていく。 中世後期に入ると、戦乱の影響や、荘園制度の崩壊などにより、御厨からの収益から断たれて神宮経済は危機的状況となったため、御師の活動が一層本格化した。御厨などの土地関係を離れて全国的に檀家を広げてゆくようになり、その活動内容も御厨などの社領管理から、参宮に際して宿泊や観光案内を提供するなどの直接的な業務が中心となった。檀家の階層も、室町時代には御師の檀家帳に商人や苗字を持たない百姓の名まで記載されるようになっていることから、旧来の武士層からさらに広い庶民階級にまで広がったと考えられる。御師の活動の変化に伴い、その担い手も「神人(じにん)」と呼ばれた旧来の神職層から、手代として人々との直接的な接触に慣れてきた「神役人(じやくにん)」と呼ばれる新興の町人層に変化し、山田三方や宇治会合と呼ばれる宇治山田の町衆による自治組織も形成された。また、「御師株」と呼ばれた御師の職権の売買も行われるようになった。
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