2代目コンビとは? わかりやすく解説

2代目コンビ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/14 06:20 UTC 版)

平和ラッパ・日佐丸」の記事における「2代目コンビ」の解説

画像提供依頼顔写真画像提供をお願いします。(2014年10月2代目平和ラッパへいわ らっぱ本名石田常三 1909年8月10日 - 1975年5月2日)(満65歳没) 小柄ふくよかな顔、眉前一直線おかっぱ頭本人曰くローレル&ハーディオリヴァー・ハーディ模したのだという。一時ポマード固めた七三分け姿にしていたこともある)と出っ歯といった特徴のある顔で、「出歯亀」「先祖代々過去帳一切混じり気のないアホ」で売り出す立ち位置は左。 大阪堺市生まれ1927年奉公先で初代浅田家日佐丸に入門。兄の平和日佐治と平和日佐一の名でコンビ組み、のち「平和家ラッパ浪花家日佐丸」と改名両者の妻も姉妹であった1954年ラッパは兄の死去に伴い自身弟子でもあった妻とコンビ平和ラッパ・日佐丸嬢」を結成その後歴代日佐丸とコンビを組む長らく松竹芸能所属した晩年吉本興業移籍したネタではラッパ高い声とやや舌足らず喋りアホぶりをさんざん発揮して日佐丸を困らせた後、日佐丸が「こんなん連れてやってますねん」とぼやき、これを受けてラッパが「苦労しまっせ(または『気ィ使いまっせェー』)」と言うと日佐丸は呆れるように「それは僕が言うねや」と受け、2人で「ハハーッ、さいならー(しゃいならー)」と落として締める。他にも「亀豆噛めまんねんなぁ」のギャグヒット代々の日佐丸とは年齢差もあってかラッパが常に主導権握りギャララッパの方が多く貰っていた。このため人気が出ると日佐丸側に不満が募ることとなり、結局事務所揉めた末にコンビ解消というパターン繰り返した。特に4代目日佐丸とは不仲で、ギャララッパ7、日佐丸3で貰っていたが、日佐丸側が半分ずつにするよう要求挙げ句に日佐丸が漫才作家に対して自身喋った時に笑いが起こるようにネタ変えてくれ」とまで要求し作家からは「それではラッパ・日佐丸の漫才のよさがなくなる」と却下され、そこから両者不和になり解消至った仲間たちとの宴会や日佐丸が舞台病気休んだ時(4代目病弱であった)は特技として座布団や襖、一畳サイズの畳を片手回していた。また、和朗亭でその珍芸披露している。 まともな教育受けていなかったためいわゆる文盲読み書きができず、漫才台本相方読んで貰って覚えていた。後にテープレコーダーという便利な家電登場する真っ先購入し相方読み上げた台本録音した物を聞いて覚えていた。 ヒロポン愛用者戦後ヒロポン中毒悩まされた。正司歌江かしまし娘)に薦めた人物でもある。なお上質なヒロポン安く調達していたため芸人仲間では重宝された。また糖尿病でもあった。晩年医者から禁酒されていてをよく飲んでいた。 1975年5月2日午後1時に肝硬変のため、入院先の関西電力病院死去享年65。 平和日佐丸 立ち位置は右。 2代目( - 1954年初代浅田家日佐丸に入門2代目ラッパ実兄であった佐治が「浪花家日佐丸」を名乗る1954年急死弟子には平和日佐子。 3代目本名:溝畑勲 1933年 - 1968年武田尾生まれ1954年秋田實宝塚新芸座に入る。寂の効いたしゃがれ声活かしたそのツッコミは「氷の剣のよう」と称され歴代日佐丸の中では最もツッコミうまかったといわれるラッパも「Oちゃん(旧芸名にちなみこう呼んでいた)とやっていた時が一番やりやすかった」と語っていたという。1956年秋に秋田Aスケ門下となり「秋田Oスケ」の名で秋田Kスケと「秋田Oスケ・Kスケ」を組む。1959年3代目日佐丸を襲名1963年ラッパとのコンビ解消後は「波多シャープ」の名で妻の波多フラットとのコンビ波多シャープ・フラット」、「三田ホップ」の名でトリオ三田ホップ・ステップ・ジャンプステップは後のレツゴー正児レツゴー三匹))」といった経歴重ねる。 その後足の爪を切った時の傷から感染症起こし入院片脚切断。さらに1968年フラット幼馴染み男性不倫の末に駆け落ち心中しそうした事から将来絶望し自殺享年364代目本名広島正夫 1926年 - 1972年京都市生まれ京都実業卒業17歳日活映画俳優入社その後キャバレー支配人経て1954年1950年?)に、秋山ではなく夏川左楽の名で秋山右楽・左楽結成次に4代目日佐丸を名乗った病気がちなのとラッパとの不和コンビ解消その後夏川宇津太」の名で夏川加津太とコンビ夏川宇津太・加津太」を結成した1972年46歳病死5代目本名夜久二郎 1925年 - ) 京都市生まれ桃園小学校卒業後島製作所勤務芸事が好きで朝日放送ラジオ演芸コンクール漫才教室」に出場し6代目笑福亭松鶴俳優などの芸能人ものまね披露して賞を総なめしていた。その番組司会者だった浮世亭夢若見出され門下になり南秀児の名で北伸児と組んで1959年千日劇場初舞台。夢若急死後の1965年からは「浮世亭秀若」の名で松鶴家光晴と組み、光晴の死後は島ぽん太とのコンビ経て5代目日佐丸を襲名2代目ラッパ死後木村栄子コンビを組むうまくいかず、1977年6月コンビ解消、すぐに廃業芸人仲間でのあだ名は「秀ちゃん(しゅうちゃん)」、なお人生幸朗がつけたあだ名は「うんこちゃんであった、妻に対しては名前を呼び捨てするのに用を足す時は「今からうんこちゃん行ってくると言っていたのでそう呼んでいた。 浅田家日佐丸嬢(本名石田絹子 1910年 - 没年不詳2代目ラッパ夫人にして弟子歴代の日佐丸同様ツッコミ役で、夫が3代目日佐丸と組むまで相方務めたさんざんラッパこき下ろし笑いを取るスタイル取り、また新世界新花月によく出て河内音頭(ヤンレー節)を唸らせていた。

※この「2代目コンビ」の解説は、「平和ラッパ・日佐丸」の解説の一部です。
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