2代目カンガルーズ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 13:46 UTC 版)
「ファビュラス・カンガルーズ」の記事における「2代目カンガルーズ」の解説
ヘファーナンの帰豪後、コステロはドイツ人ギミックのカール・フォン・ブラウナーとのジ・インターナショナルズを経て、イギリス出身のレイ・セント・クレアー(ティンカー・トッド)をパートナーに再びファビュラス・カンガルーズとして活動。1967年9月16日にデトロイトにてフレッド・カリー&ビリー・レッド・ライオンを破り、デトロイト版のNWA世界タッグ王座を獲得したが、セント・クレアーとのコンビは短期間で解消。同年12月より、トロントにてアメリカ人のドン・ケントを新パートナーに迎え、ファビュラス・カンガルーズを改めて再結成する。 トロントでは、プロモーターのフランク・タニーを会長としてグレート東郷が創設したTWWA(当時TBS体制下の国際プロレスのブッカーに就任した東郷が、国際プロレス用のタイトル管理組織として立ち上げた架空の団体)の初代世界タッグ王者に認定され、翌1968年1月末、TWWA世界タッグ王者チームとして国際プロレスの『TWWAワールド・タッグ・シリーズ』に初来日。開幕戦の1月31日に横浜文化体育館にてグレート草津&サンダー杉山を相手に防衛戦を行ったが、2月14日に大阪府立体育館にて豊登&杉山に敗れて王座を明け渡した。このシリーズ中、東郷が国際プロレスと金銭トラブルを起こして決裂し、外国人選手の試合出場にストップをかけたため、途中帰国を余儀なくされている。 その後は中西部および北東部を主戦場に、デトロイト地区やNWF、インディアナポリスのWWAなどで活動。インディアナポリスでは1970年7月17日にディック・ザ・ブルーザー&ビル・ミラー、翌1971年6月18日にウイルバー・スナイダー&ムース・ショーラックを破り、WWA世界タッグ王座を2回獲得している。初代カンガルーズ時代に活躍したニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにも時折ゲスト出場しており、1971年8月30日の定期戦ではドリー・ファンク・シニア&テリー・ファンクと対戦した。デトロイトでは同年12月18日、トーナメント決勝でガイ・ミッチェル&ベン・ジャスティスを下してNWA世界タッグ王座に返り咲き、以降もミッチェル&ジャスティスと同王座を争った。 1972年11月には日本プロレスの『インターナショナル選手権シリーズ』に来日。11月21日に愛知県体育館にて、坂口征二&吉村道明が保持していたアジアタッグ王座に挑戦した。同シリーズはジャイアント馬場の離脱で空位となっていたインターナショナル・ヘビー級王座とインターナショナル・タッグ王座の争奪戦が焦点となったが、外国人陣営ではキラー・カール・コックスやモンゴリアン・ストンパー、さらには特別参加でキニスキーとブラジルが同時参戦していたこともあり、初代王者ともされるインターナショナル・タッグ王座への挑戦権は与えられなかった。 1973年はテネシーのミッドアメリカ地区で活動し、ミッドアメリカ版のNWA世界タッグ王座を通算3回獲得。トージョー・ヤマモト、ジャッキー・ファーゴ、ジェリー・ジャレットらのチームと抗争を展開した。1974年にコンビを解消して個別に活動した後、1977年にプエルトリコのWWCでチームを一時的に再結成。2月26日にWWC世界タッグ王座の初代王者に認定されるが、3月12日にカルロス・コロン&ホセ・リベラにタイトルを明け渡している。翌1978年も古巣のWWAにてスナイダーやスパイク・ヒューバーのチームと対戦するが、継続的な活動には至らず、以降ケントは "ブルドッグ" ドン・ケントと名乗ってシングルプレイヤーに戻り、コステロはセミリタイアしてマネージャーに転身した。なお、ケントとのコンビ解消中、コステロはトニー・チャールズとカンガルーズを再々結成し、デトロイトにてドミニク・デヌーチ&クリス・マルコフからNWA世界タッグ王座を奪取したともされる。
※この「2代目カンガルーズ」の解説は、「ファビュラス・カンガルーズ」の解説の一部です。
「2代目カンガルーズ」を含む「ファビュラス・カンガルーズ」の記事については、「ファビュラス・カンガルーズ」の概要を参照ください。
- 2代目カンガルーズのページへのリンク