1970年から1992年までとは? わかりやすく解説

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1970年から1992年まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/14 22:08 UTC 版)

ニューイングランド・ペイトリオッツ」の記事における「1970年から1992年まで」の解説

1970年AFLNFL正式に合併完了しNFLAFCアメリカンフットボールカンファレンス東地区に属すこととなったミネソタ・バイキングスQBNFLMVP獲得したジョー・キャップを獲得したシーズン成績AFCから参加したチームワーストの2勝14敗に終わったこの年チームはハーバード・スタジアムを本拠地とした。 1971年チーム名を「Bay State Patriots」と変えた後、同じ年にニューイングランド・ペイトリオッツ改称したチーム創設以来11年間で4つスタジアム転々としていたが、1971年から本拠地フォックスボロ・スタジアム710ドルをかけてわずか325日で完成した)に移したドラフトでは全体1位でハイズマン賞獲得したスタンフォード大学出身ジム・プランケット指名した。またスタンフォード大学時代プランケット好んだWRランディ・バタハフリーエージェント獲得した開幕戦強豪オークランド・レイダース破った後5連敗喫したスーパーボウル出場したマイアミ・ドルフィンズを破るなど、最終的に6勝8敗で終えた1972年プランケット2年目のジンクス見舞われた。2勝1敗でスタートした後、チームは9連敗してしまう。9連敗中にヘッドコーチのジョン・メーザーとゼネラルマネージャーのアプトン・ベルが解雇され、フィル・ベングソンがヘッドコーチとなり4試合指揮を執ったが1勝しか加えることができず3勝11敗で終わった1973年のドラフトその後チーム初のNFL殿堂入りを果たすことになるジョン・ハナ加入したこの年ドラフトではチーム歴代通算ラッシングリーダーとなるRBサム・カニンガムやWRダリル・スティングレーが加入し、さらにオクラホマ大学ヘッドコーチとして成功していたチャック・フェアバンクスを新たなHCとして迎えたシーズンを2勝7敗でスタートするその後3連勝果たし、5勝9敗でシーズン終えた1974年には開幕戦でスーパーボウルチャンピオンのドルフィンズ勝利するなど6勝1敗の好スタート切ったシーズン後半にわずか1勝しかあげることができず7勝7敗に終わったこの年身長わずか165cm(5フィート5インチ)のマック・ヘロン活躍見せた1975年プランケット負傷してしまい控えQBのスティーブ・グローガンでシーズン戦った。3勝11敗に終わりシーズン終了後チームプランケットサンフランシスコ・49ers放出した1976年チームプランケットトレード得たドラフト利用してディフェンスバックのマイク・ヘインズ、ティム・フォックスを獲得先発QBには2年目のグローガンを起用した開幕戦落としたものの続く3試合ドルフィンズスティーラーズレイダースAFC強豪撃破チーム創設以来最高の11勝3敗を記録して1963年以来プレーオフ進出果たしたプレーオフではレギュラーシーズンに48-17と圧勝したオークランド・レイダース対戦した。21-17とリードして迎えた試合終盤QBグローガンがロン・フランシスを狙ってパス投げた失敗相手ラインバッカーフィル・ビラピアーノフランシスパス捕球前にヒットしていたがペナルティ取られず、次のプレイ50ヤードFGを狙うも失敗に終わる。そしてレイダース自陣27ヤードまで攻め込まれ3rdダウン18場面QBケン・ステイブラーパス失敗終わり勝利大きく前進したかと思われたが、このプレーDTレイ・ハミルトンがラフィング・ザ・パッサーの反則犯していたとしてペイトリオッツ陣内12ヤードでのファーストダウン与えられた。続いて2つアンスポーツマンライク・コンダクト反則取られ最後はステイブラーに残り10秒で1ヤードTDラン決められ21-24敗れ去った。この試合レフェリーのベン・ドレイスの名をとって、ベン・ドレイス・ゲームとも言われている。ペイトリオッツQBグローガンはこの試合について大事な物を奪われた。嵌められたんだ。」と語り、この試合での無念晴れることは永遠にないと話した1977年は、ジョン・ハナとレオン・グレイの契約難航、9勝5敗でプレーオフ逃した1978年のプレシーズンゲームでスターWRのダリル・スティングレーがオークランド・レイダースジャック・テイタムハードヒット受けてほぼ全身麻痺となりそのまま引退追い込まれた。主力選手失ったものの10勝4敗で迎えたビルズ戦、残り8秒でデビッド・ポージーの34ヤードFGが決まると60,000人のファン一斉にグラウンドになだれ込んで地区優勝祝った最終戦直前HCフェアバンクスコロラド大学ボルダー校HCとなることが明らかにされ試合前にフェアバンクスチームオーナーのビリー・サリバンによってクビにされロン・エルハルトが指揮を執った。プレーオフ1回戦はフェアバンクス再度サイドラインから指揮執り地元シェーファー・スタジアムで戦ったヒューストン・オイラーズ敗れファンHCに対してブーイング行った1979年マンデーナイトフットボールとなった開幕戦スティーラーズ戦にスティングレーが姿を現わしファンスタンディングオベーション受けた1979年は7勝3敗と好スタート切った最後の6試合で4敗し、9勝7敗に終わりプレーオフ逃した1980年スターRBのサム・カニンガムがシーズン全試合欠場したが、代わってルーキーRBのバーガス・ファーガスンがチームのルーキーラッシング記録塗り替える活躍見せたチームは6勝1敗でスタートしたものの10勝6敗に終わった1981年過去2シーズンプレーオフをわずかの差で逃していたチームはプレシーズンゲームを4連勝終えてファン期待高まった。しかし開幕から4連敗しその後の3試合で2勝を挙げた最後は9連敗で2勝14敗に終わり同じく2勝14敗だったボルチモア・コルツに2勝を献上してしまうなどのていたらくであったシーズン終了後HCのエルハルトは解任された。 1982年、ロン・マイヤーを新ヘッドコーチ迎えストライキ短縮されシーズンSnowplow Game呼ばれたマイアミ・ドルフィンズとのゲーム3-0で勝つなど、8チーム出場したこの年プレーオフに第7シード出場果たした。しかしマイアミ行われたプレーオフ1回戦でドルフィンズ敗れプレーオフ未勝利続いた1983年QBトニー・イースンをドラフト1巡で指名したチームは鍵になる試合落とし8勝8敗でプレーオフ逃した1984年ドラフト全体1位でネブラスカ大学WRアービン・フライヤーを獲得、トニー・イースンが先発QBとなった序盤を5勝2敗でスタートした連敗したところでマイヤーコーチは解雇されて新HCには元WRのレイモンド・ベリーが就任したベリーコーチ就任してからの最初の4試合中3試合勝利を収めた12月入って3連敗するなど9勝7敗に終わりプレーオフ進出はならなかった。 1985年ベリーHCは、イースンに代えてグローガンを先発QBとしたがシーズン終盤グローガンは左足負傷、再びイースンが先発返り咲いたチームは6連勝するなど11勝5敗でシーズン終えワイルドカードプレーオフ進出果たしたHCベリーは、コーチ・オブ・ザ・イヤーに選ばれた。プレーオフ1回戦でニューヨーク・ジェッツ破りプレーオフでの初勝利を挙げるレイダース戦では6つターンオーバー奪い27-20でAFCチャンピオンシップゲーム進んだ。そして同地区ライバルであるドルフィンズ20連敗していた敵地マイアミ破り第20回スーパーボウル出場シカゴ・ベアーズ対戦することとなった。しかしアービン・フライヤーが家庭内トラブル負傷したことが明らかにされるなど雑音聞きながらスーパーボウルウィークを迎えることとなった。この試合相手エースRBウォルター・ペイトンファンブルなどで3-0先制したものの、ファーストプレイでTEリン・ドーソン負傷退場しその後ベアーズ連続して46得点入れられるゲーム終了前に1TDを奪ったが、10-46とスーパーボウル新記録となる36点差大敗した。リーグベストのガード1人評価されていたジョン・ハナスーパーボウル出場最後に引退した1986年チームはイースンからWRスタンリー・モーガンへのパスゲームをゲームプラン中心に組み立てモーガンレシーブで1,500ヤード近く獲得した。しかしラッシングオフェンスはリーグ最下位終わった11勝5敗で地区優勝果たしプレーオフ1回戦で敵地デンバー乗り込んだ第4Q終盤ジョン・エルウェイからバンス・ジョンソンへのタッチダウンパスが決まりブロンコス敗れたその後チーム8年プレーオフから遠ざかることとなった1987年選手ストライキ起きた期間に地元ボストンカレッジ出身1984年ハイズマン賞取ったダグ・フルーティ加入したディフェンス選手多くストライキ参加してその間の3試合代替選手プレーした1988年オーナーだったサリバンファミリーは事業の失敗などで巨額損失出したため8400ドルチーム売却された。このシーズンフルーティ最初の5試合先発したが、その後イースンが先発QBとなった。これは成功修め9勝7敗となりわずかの差でプレーオフ逃した1989年チームディフェンス中心だった3選手、アンドレ・ティペット、ガリン・ベリス、ロニー・リペットがプレシーズンゲームの同じ試合負傷戦列離脱してしまうという不運もあり5勝11敗に終わった1990年フルーティカナディアン・フットボール・リーグ移籍長年ゼネラルマネージャー務めていたディック・スタインバーグもジェッツゼネラルマネージャーとなるためチーム離れたベリーHC解雇されピッツバーグ・スティーラーズのディフェンシブ・コーディネーターであったロッド・ラストが新しヘッドコーチとなったこの年チーム創設以来最悪の1勝15敗に終わる。9月17日、ボストンヘラルドの26歳女性レポーターリサ・オルソンに対してチームロッカールームセクハラ行為複数選手が行ったことが報道された。このスキャンダルに対してNFLコミッショナーのポール・タグリアブはチーム5万ドル罰金TEジーク・モワットWRマイケル・ティンプソン、RBロバート・ペリーマンの3選手にもそれぞれ罰金課された。 1991年、6勝10敗で地区4位に終わる。 1992年にはチーム売却されセントルイス移転するではないかという報道があった。しかし移転行われずチームは2勝14敗に終わったシーズンオフチームはディック・マクファーソンHC解雇ニューヨーク・ジャイアンツ2度スーパーボウル制覇1987年1991年)したビル・パーセルズ契約した

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