1970年から1992年まで
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「ニューイングランド・ペイトリオッツ」の記事における「1970年から1992年まで」の解説
1970年にAFLとNFLが正式に合併を完了し、NFLのAFC(アメリカンフットボールカンファレンス)東地区に属すこととなった。ミネソタ・バイキングスのQBでNFLのMVPを獲得したジョー・キャップを獲得したがシーズン成績はAFCから参加したチームワーストの2勝14敗に終わった。この年チームはハーバード・スタジアムを本拠地とした。 1971年にチーム名を「Bay State Patriots」と変えた後、同じ年にニューイングランド・ペイトリオッツと改称した。チームは創設以来11年間で4つのスタジアムを転々としていたが、1971年から本拠地をフォックスボロ・スタジアム(710万ドルをかけてわずか325日で完成した)に移した。ドラフトでは全体1位でハイズマン賞を獲得したスタンフォード大学出身のジム・プランケットを指名した。またスタンフォード大学時代にプランケットが好んだWRのランディ・バタハをフリーエージェントで獲得した。開幕戦で強豪のオークランド・レイダースを破った後5連敗を喫したがスーパーボウルに出場したマイアミ・ドルフィンズを破るなど、最終的に6勝8敗で終えた。 1972年、プランケットが2年目のジンクスに見舞われた。2勝1敗でスタートした後、チームは9連敗してしまう。9連敗中にヘッドコーチのジョン・メーザーとゼネラルマネージャーのアプトン・ベルが解雇され、フィル・ベングソンがヘッドコーチとなり4試合の指揮を執ったが1勝しか加えることができず3勝11敗で終わった。 1973年のドラフトでその後チーム初のNFL殿堂入りを果たすことになるジョン・ハナが加入した。この年のドラフトではチームの歴代通算ラッシングリーダーとなるRBサム・カニンガムやWRダリル・スティングレーが加入し、さらにオクラホマ大学のヘッドコーチとして成功していたチャック・フェアバンクスを新たなHCとして迎えた。シーズンを2勝7敗でスタートするもその後3連勝を果たし、5勝9敗でシーズンを終えた。 1974年には開幕戦でスーパーボウルチャンピオンのドルフィンズに勝利するなど6勝1敗の好スタートを切ったがシーズン後半にわずか1勝しかあげることができず7勝7敗に終わった。この年、身長わずか165cm(5フィート5インチ)のマック・ヘロンが活躍を見せた。 1975年、プランケットが負傷してしまい控えQBのスティーブ・グローガンでシーズンを戦った。3勝11敗に終わりシーズン終了後、チームはプランケットをサンフランシスコ・49ersに放出した。 1976年、チームはプランケットのトレードで得たドラフト権を利用してディフェンスバックのマイク・ヘインズ、ティム・フォックスを獲得、先発QBには2年目のグローガンを起用した。開幕戦を落としたものの続く3試合にドルフィンズ、スティーラーズ、レイダースとAFCの強豪を撃破、チーム創設以来最高の11勝3敗を記録して1963年以来のプレーオフ進出を果たした。プレーオフではレギュラーシーズンに48-17と圧勝したオークランド・レイダースと対戦した。21-17とリードして迎えた試合終盤、QBグローガンがロン・フランシスを狙ってパスを投げたが失敗。相手ラインバッカーのフィル・ビラピアーノがフランシスのパス捕球前にヒットしていたがペナルティは取られず、次のプレイで50ヤードのFGを狙うも失敗に終わる。そしてレイダースに自陣27ヤードまで攻め込まれた3rdダウン18の場面、QBケン・ステイブラーのパスは失敗に終わり勝利に大きく前進したかと思われたが、このプレーでDTレイ・ハミルトンがラフィング・ザ・パッサーの反則を犯していたとしてペイトリオッツ陣内12ヤードでのファーストダウンが与えられた。続いて2つのアンスポーツマンライク・コンダクトの反則が取られ、最後はステイブラーに残り10秒で1ヤードのTDランを決められ21-24で敗れ去った。この試合はレフェリーのベン・ドレイスの名をとって、ベン・ドレイス・ゲームとも言われている。ペイトリオッツのQBグローガンはこの試合について「大事な物を奪われた。嵌められたんだ。」と語り、この試合での無念が晴れることは永遠にないと話した。 1977年は、ジョン・ハナとレオン・グレイの契約が難航、9勝5敗でプレーオフを逃した。 1978年のプレシーズンゲームでスターWRのダリル・スティングレーがオークランド・レイダースのジャック・テイタムのハードヒットを受けてほぼ全身麻痺となりそのまま引退に追い込まれた。主力選手を失ったものの10勝4敗で迎えたビルズ戦、残り8秒でデビッド・ポージーの34ヤードのFGが決まると60,000人のファンは一斉にグラウンドになだれ込んで地区優勝を祝った。最終戦の直前にHCのフェアバンクスがコロラド大学ボルダー校のHCとなることが明らかにされ試合前にフェアバンクスはチームオーナーのビリー・サリバンによってクビにされロン・エルハルトが指揮を執った。プレーオフ1回戦はフェアバンクスが再度サイドラインから指揮を執り、地元シェーファー・スタジアムで戦ったがヒューストン・オイラーズに敗れファンはHCに対してブーイングを行った。 1979年、マンデーナイトフットボールとなった開幕戦のスティーラーズ戦にスティングレーが姿を現わしファンのスタンディングオベーションを受けた。1979年は7勝3敗と好スタートを切ったが最後の6試合で4敗し、9勝7敗に終わりプレーオフを逃した。 1980年はスターRBのサム・カニンガムがシーズン全試合を欠場したが、代わってルーキーRBのバーガス・ファーガスンがチームのルーキーラッシング記録を塗り替える活躍を見せた。チームは6勝1敗でスタートしたものの10勝6敗に終わった。 1981年、過去2シーズンをプレーオフをわずかの差で逃していたチームはプレシーズンゲームを4連勝で終えてファンの期待は高まった。しかし開幕から4連敗しその後の3試合で2勝を挙げたが最後は9連敗で2勝14敗に終わり、同じく2勝14敗だったボルチモア・コルツに2勝を献上してしまうなどのていたらくであった。シーズン終了後HCのエルハルトは解任された。 1982年、ロン・マイヤーを新ヘッドコーチに迎えストライキで短縮されたシーズン、Snowplow Gameと呼ばれたマイアミ・ドルフィンズとのゲームを3-0で勝つなど、8チームが出場したこの年のプレーオフに第7シードで出場を果たした。しかしマイアミで行われたプレーオフ1回戦でドルフィンズに敗れ、プレーオフ未勝利が続いた。 1983年、QBトニー・イースンをドラフト1巡で指名した。チームは鍵になる試合を落とし8勝8敗でプレーオフを逃した。 1984年、ドラフトの全体1位でネブラスカ大学のWRアービン・フライヤーを獲得、トニー・イースンが先発QBとなった。序盤を5勝2敗でスタートしたが連敗したところでマイヤーコーチは解雇されて新HCには元WRのレイモンド・ベリーが就任した。ベリーがコーチに就任してからの最初の4試合中3試合で勝利を収めたが12月に入って3連敗するなど9勝7敗に終わり、プレーオフ進出はならなかった。 1985年にベリーHCは、イースンに代えてグローガンを先発QBとしたがシーズン終盤グローガンは左足を負傷、再びイースンが先発に返り咲いた。チームは6連勝するなど11勝5敗でシーズンを終え、ワイルドカードでプレーオフ進出を果たした。HCベリーは、コーチ・オブ・ザ・イヤーに選ばれた。プレーオフ1回戦でニューヨーク・ジェッツを破りプレーオフでの初勝利を挙げるとレイダース戦では6つのターンオーバーを奪い27-20でAFCチャンピオンシップゲームに進んだ。そして同地区のライバルであるドルフィンズを20連敗していた敵地マイアミで破り第20回スーパーボウルへ出場、シカゴ・ベアーズと対戦することとなった。しかしアービン・フライヤーが家庭内のトラブルで負傷したことが明らかにされるなど雑音を聞きながらスーパーボウルウィークを迎えることとなった。この試合は相手のエースRBウォルター・ペイトンのファンブルなどで3-0と先制したものの、ファーストプレイでTEのリン・ドーソンが負傷退場し、その後ベアーズに連続して46得点を入れられる。ゲーム終了前に1TDを奪ったが、10-46とスーパーボウル新記録となる36点差で大敗した。リーグベストのガードの1人と評価されていたジョン・ハナはスーパーボウル出場を最後に引退した。 1986年、チームはイースンからWRスタンリー・モーガンへのパスゲームをゲームプランの中心に組み立て、モーガンはレシーブで1,500ヤード近くを獲得した。しかしラッシングオフェンスはリーグ最下位に終わった。11勝5敗で地区優勝を果たしプレーオフ1回戦で敵地デンバーに乗り込んだが第4Q終盤、ジョン・エルウェイからバンス・ジョンソンへのタッチダウンパスが決まりブロンコスに敗れた。その後チームは8年間プレーオフから遠ざかることとなった。 1987年、選手のストライキが起きた期間に地元ボストンカレッジ出身で1984年にハイズマン賞を取ったダグ・フルーティが加入した。ディフェンス選手の多くがストライキに参加してその間の3試合は代替選手がプレーした。 1988年、オーナーだったサリバンファミリーは事業の失敗などで巨額の損失を出したため8400万ドルでチームは売却された。このシーズンはフルーティが最初の5試合に先発したが、その後イースンが先発QBとなった。これは成功を修め9勝7敗となりわずかの差でプレーオフを逃した。 1989年、チームのディフェンスの中心だった3選手、アンドレ・ティペット、ガリン・ベリス、ロニー・リペットがプレシーズンゲームの同じ試合で負傷戦列を離脱してしまうという不運もあり5勝11敗に終わった。 1990年、フルーティはカナディアン・フットボール・リーグに移籍、長年ゼネラルマネージャーを務めていたディック・スタインバーグもジェッツのゼネラルマネージャーとなるためチームを離れた。ベリーHCも解雇され、ピッツバーグ・スティーラーズのディフェンシブ・コーディネーターであったロッド・ラストが新しいヘッドコーチとなった。この年チームは創設以来最悪の1勝15敗に終わる。9月17日、ボストンヘラルドの26歳の女性レポーターリサ・オルソンに対してチームのロッカールームでセクハラ行為を複数の選手が行ったことが報道された。このスキャンダルに対してNFLコミッショナーのポール・タグリアブはチームに5万ドルの罰金、TEジーク・モワット、WRマイケル・ティンプソン、RBロバート・ペリーマンの3選手にもそれぞれ罰金が課された。 1991年、6勝10敗で地区4位に終わる。 1992年にはチームが売却されてセントルイスへ移転するのではないかという報道があった。しかし移転は行われずチームは2勝14敗に終わった。シーズンオフにチームはディック・マクファーソンHCを解雇、ニューヨーク・ジャイアンツで2度スーパーボウルを制覇(1987年、1991年)したビル・パーセルズと契約した。
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