黒川眞頼とは? わかりやすく解説

くろかわ‐まより〔くろかは‐〕【黒川真頼】

読み方:くろかわまより

[1829〜1906]幕末・明治時代国学者上野(こうずけ)の人。本姓金子。号、斎(てきさい)。黒川春村門人で、師の没後に姓を継ぎ家学継承した。また「古事類苑」の編纂(へんさん)に従事


黒川真頼

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/28 16:00 UTC 版)

黒川 真頼
1899年
人物情報
生誕 (1829-12-07) 1829年12月7日
日本群馬県
死没 1906年8月29日(1906-08-29)(76歳没)
学問
研究分野 国学音韻学
研究機関 文部省、東京帝国大学
学位 文学博士
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黒川 真頼(くろかわ まより、文政12年11月12日1829年12月7日) - 明治39年(1906年8月29日)は、江戸時代明治時代国学者宮内省御歌所寄人東京帝国大学教授

概要

日本の古来からの歴史制度有職故実風俗律令格式法制史日本文学音韻学美術工芸など幅広く研究し、考証学的な知を近代に継承して、再編成した明治の碩学である。大学校元老院東京帝国大学で研究した著書・論文は数多く、日本文化の集成者と言われた[1]

経歴

本姓は金子、幼名は嘉吉、名は寛長、号は荻斎上野国桐生新町(現在の群馬県桐生市)にて代々機業を営む父・金子吉右衛門治則と母・るゐの子として生まれる。生まれつき右目が不自由だったが、幼少時から家の土蔵の中で本を読みあさった。7歳の時に雨のしぶくのを聞き、「夕立やしのをたばねてふる雨に かすかに聞こゆ馬方のこえ」と詠み家族を驚かせる[1][2]天保12年(1841年)、12歳で江戸の国学者である黒川春村に師事し、 国文、国語、音韻学、和歌などを学ぶ。その刻苦精進と博覧強記は領主・酒井忠良の認めるところとなり、御褒美書とともに扇子を受領した[3]

慶応2年(1867年)、春村の遺言により養子として黒川家を継ぎ、黒川春村の学統の後継者となる。

辞書・国史・ローマ字の編纂

明治2年(1869年)に大学校より府県学校取調御用を命ぜられ、8月に中助教となり、明治3年(1870年)語箋編輯を命ぜられる。明治4年(1871年)に文部権大助教に任ぜられる。文部省で『語彙』の編纂が企てられ、木村正辞横山由清岡本保孝小中村清矩、榊原芳野、塙忠韶らと参画、後の辞書編纂の基礎をつくる。

明治6年(1873年)、文部省雇になり史略編集を命ぜられ『史略考証』三巻を編集、ローマ字での国語綴輯兼務を命ぜられ、ローマ字綴りの『横文字百人一首』を刊行している[4][5][6]

明治7年(1874年)、文部省より国史編纂を命ぜられ、木村正辞と分担して編纂する。また同省の命によって歴代天皇の御諡号、御名、年号の読方を考証し、『御諡号及年号読例』一巻を出版。10月31日に報告課雇を命ぜられる。明治8年(1875年) 、元老院権大書記生に任ぜられ、横山由清と『纂輯御系図』、『皇位継承篇』の編纂に従事する。

森有礼との国語論争、法制史の研究、古事類苑の編纂

森有礼が英語を国語として採用する論を打ち出すと、これを痛烈に批判する『言語文字改革ノ説ノ弁』を『洋々社談』第二号に発表し、日本語を守った立役者の一人となった[7][8][9]

明治9年(1876年)元老院大書記生に任ぜられる。明治12年(1879年)、東京大学法学部文学部講師を嘱託され、日本古代法律及び和文学を担当する。明治維新に伴う西洋の法制及び法律学の移入とともに、法制整備を目的に律令法や幕府法などの法制史の研究が行われた時の代表的な研究家の一人であった。

明治20年(1887年)、東京学士会院より『古事類苑』の編纂委員を嘱託され[10]帝都部を編纂、農商務省の依頼で 『大日本農史』を編纂する[11]

工藝史の確立・博覧会の功労者

明治6年(1873年)ウイーン万国博覧会「出品差出勤請書」添付の出品規定においては、Fine Artの訳語を美術と定めた[12]。 明治10年(1877年)、内務省に転じて博物館史伝課長心得となって仏国博覧会出品事務取扱を命ぜられる。この年に開催された内国勧業博覧会の際に、名誉、進歩、有功、妙技、協賛等に用いる賞牌の原型をつくり、博物局の命で『工芸志料』7巻を編纂する。従来,技術史料は廃棄される傾向が強かったが、日本技術史研究を定着させる礎となった。故郷の桐生織を日本工藝史上に特筆して位置づけている[13][14]

明治14年(1881年)、第二回内国勧業博覧会審査官等を命ぜられる。博物局が内務省から農商務省に移管されたため農商務省准奏任御用掛、博物局事務取扱となり 、東京学士会院会員に任命された。明治15年(1882年)、東京・上野に博物館(東京国立博物館の前身)が移転・開館すると、真頼が運搬担当となって皇室への献納が決まった法隆寺献納宝物を海路で横浜へ運び、横浜からは小形船に積み替えて隅田川を上り、陸揚げされた。明治22年(1889年)に帝国博物館学芸委員、臨時全国宝物取調掛として帝国博物館歴史部兼美術工芸部勤務となる。同時に皇典講究所國學院大學でも教鞭をとる。明治23年(1890年)、第三回内国勧業博覧会審査官を拝命。

歌人としての活躍

明治19年(1886年)、宮内省御歌掛寄人を拝命、明治21年(1888年)宮内省御歌所寄人に就き、歌人としても活躍した。穏やかで柔和な筆勢でも知られた[15]

古代美術の研究、天長節の作詞

明治21年(1888年)に文学博士の学位を授与され、文部省の命で美術取調として10月から12月まで京都、大阪、奈良、滋賀、和歌山の寺社の宝物を巡視する。明治25年(1892年)には、宮内庁より正倉院御物整理係を命ぜられ、臨時博覧会事務局鑑査官となる。正倉院の唐櫃にしまってあった御物を硝子戸棚に陳列し、一般に拝観するようにしたのはこの時からである[16]。 真頼が指導したアーネスト・フェノロサ岡倉天心が設立に尽力した東京美術学校が明治22年(1889年)に開校すると教諭に就任、東京美術学校の官制改正により教授に任ぜられ歴史、和文、金工、漆工史等の授業を担当する[17]日本美術を高く評価して世界へ紹介したことで知られるフェロノサは、ハーバード大学の同窓生である金子堅太郎の影響で日本美術に深い関心を持ち、本格的に日本美術を研究するためには誰に師事すべきかと金子に相談、大学校教授の黒川真頼と小中村清矩に学ぶことを推薦され、フェノロサは黒川に学んだ[18]。東京美術学校の初期の学生には福田眉仙横山大観下村観山菱田春草西郷孤月らがいて、のちに高村光太郎なども受講している。日本古代美術の研究により、古代美術の評価を世界的なものにした功績は非常に大きいとされている[19]。 明治24年(1891年)、東京音楽学校教授兼任となり、祝日祭日歌詞及び楽譜審査委員を命ぜられ、「天長節奉祝」の唱歌を作詞、奥好義が作曲して発表された。

法服を制定

奈良時代の衣冠束帯姿を模倣した東京美術学校の制服[20]

黒川は、東京大学で指導した岡倉天心からの依頼で当時教授をしていた東京美術学校の開設時の制服を考案した[21]

明治23年(1890年)、初代司法大臣山田顕義からの依頼により、判事検事、裁判所書記、弁護士裁判所で着用する法服を考案した[22][23]。これらの制服は、聖徳太子像より考証した古代官服風の冠と闕腋袍から成っており、当時としても異様なものであった[24]。そのため、黒川が裁判所に事件の証人として召喚された際には、廷丁に判事と間違えられたという逸話もある[25]。この法服考案の背景には、当時の日本は、急速な西洋化、鹿鳴館時代への反動から、日本古来の伝統を重んじる復古主義が台頭しており、裁判制度の整備は不平等条約改正のポイントのひとつでもあった。不平等な扱いと決別し、日本の「自立」を印象付けるには、「日本は長い歴史と伝統文化を持つ国」だと示す必要があった[26][27]。         

東京帝国大学教授

明治26年(1893年)、帝国大学文科大学教授(国語学国文学国史学第三講座担当)に就任[28]。明治28年(1895年)古事類苑編修顧問、明治29年(1896年)古寺社保存会委員、明治31年(1898年)帝国博物館鑑査委員・歴史部長心得を命ぜられるが、明治32年(1899年)に再発した中風のため起居の自由を失ったため休職、明治35年(1902年)には全ての公職から退き、勅旨を以って東京帝国大学名誉教授の名称を授与された。

明治39年(1906年)8月29日死去、享年78(満76歳)。墓所は谷中霊園

研究内容・業績

  • 子の真道によって『黒川真頼全集』が編纂され、『文学博士黒川真頼伝』も編まれた。
  • 「Fine Art」の訳語を「美術」と制定したことについて、もともと中国から来た「美」という文字が「羊」と「大」を繋げた文字であり、羊は生贄として神様に捧げることもする御馳走であり、大きく太っている羊はうまいというのが字の由来であった。古今東西にあたって名人、天才が生んだ作品が発生する感銘は美という字の由来で縛り切れないため、真頼は「美」という字を不満に感じていた[29]。「美」という字の他にもっと良い字がないかと迷い様々な文字を検討したが適当な言葉が見当たらないため、しばらくこの字を用いると但書を書いた[30][31]。なお「美術」自体は「芸術」を翻訳した西周が翻訳したと言われる。
  • 『言語文字改革ノ説ノ弁』は、「言葉は変えられないが、文字は変えられる」という説で、「西洋の言語文字に改めるのが便利であるとの説があるが、日本語は創造神の作り与えられたものであるから、日本語は変えることはできない。しかし文字は支那文字の借用であるから、時が経ったら便利なものに変えることもある。不便でもそのままにしておくのは神意に背く」という「言語神授説」に基づく考えである[32][33]
  • 大蔵省が告示した改造一円紙幣武内宿禰(1889年(明治22年)3月15日告示)、改造五円紙幣菅原道真の肖像(1888年(明治21年)11月14日告示)、改造十円紙幣和気清麻呂の肖像(1890年(明治23年)7月26日告示)、改造百円紙幣における藤原鎌足 の肖像(1891年(明治24年)11月10日告示)は、文献資料や絵画・彫刻を参考にしつつ黒川真頼の考証をもとにデザインされた[34]
  • 百円紙幣千円紙幣五千円紙幣一万円紙幣に登場した聖徳太子の肖像画は太子を描いた最古のものと伝えられる『聖徳太子二王子像』から採られている。この聖徳太子像において、太子が着ている服装は①「朱華衣(はねず)」という天武天皇から持統天皇在位(685~697年)までの皇族用の服であるということ②手にしている笏(しゃく)は大化3年(647年)以後に制度化されること③冠は漆紗冠(しっしゃかん)といって682年に始まったことを明らかにしている[35]
  • 19世紀末から半世紀にわたって論争された「法隆寺再建非再建論争」では、天智9年(670)4月に創建法隆寺は焼亡し、現在の西院伽藍は和銅年間(708‐715)に再建したものという説を唱えた[36]
  • 『本朝画図品目』など江戸時代に編まれた絵画の伝存や所蔵先を記した文献には、土佐光重による明徳年間(1390-93年)頃と考えられる1巻、近衛家に土佐経隆(藤原経隆)によって正和5年(1316年)描かれたとされる奥書きをもつ百鬼夜行絵巻が伝来していたと記している。存否は確認されておらずどのような内容であったかは不詳であるが、古川躬行同様に土佐経隆は12世紀の人物なので14世紀に描かれている点を考えると画家名は疑わしいと『増補考古画譜』で考察した[37]
  • 欽明天皇記を元に秦大津父が最初に市司になったという説を唱えた[38][39]
  • 長慶天皇の在位・非在位の議論では非在位説を論じた。
  • 正倉院北倉に収蔵されていた赤漆文欟木御厨子の継承に関する論争において、『東大寺献物帳考証』において『万葉集』巻20に見える先太上天皇が元明であることから、中太上天皇を元正であるとした[40]
  • 正倉院御物である「金銀鈿荘唐大刀」は渡来のものであるが、その技法「末金鏤」は「平塵」であって蒔絵ではないとし、蒔絵の起源を平安時代の日本の資料に求めた[41][42]
  • 独学日本語文法音韻について、詳細な研究を開始した東条義門が、『詞八衢』における本居春庭の説を展開して著した『詞の道しるべ』の受容を指摘した[43]
  • 有田陶芸家酒井田柿右衛門の名声が再び高まったのは、『工芸史料』で柿右衛門を顕彰したことがきっかけである[44]
  • 東京大学文学部で学んだ高田早苗早稲田大学初代学長)は、文学部の授業で外山正一中村敬宇信夫恕軒の授業に感化されたが、黒川真頼の授業が一番役に立ったという[45]

死後

春村・真頼・真道三代の蔵書のうち、歌学書を中心に3387冊がノートルダム清心女子大学に、物語・随筆関係2286冊が実践女子大学に、神道関係704冊が國學院大學に、仏教関係500部が日本大学に、それぞれ「黒川文庫」として分散所蔵されている。これら所蔵左記以外にも、蔵書は分散して様々な機関に入っている。

栄典

位階

勲章等

  • 1893年(明治26年)12月28日 - 勲六等瑞宝章[50]
  • 1897年(明治30年)12月28日 - 勲五等瑞宝章[51]
  • 1899年(明治32年) 2月 2日 - 勲四等瑞宝章[49]
  • 1906年(明治39年) 8月30日 - 旭日小綬章[52]

家族・親族

著書

「著述書目 黒川真頼全集所収書目」(『文学博士黒川真頼伝』所収)参照

単著

共著・編・共編

校閲・校訂

脚注

  1. ^ a b 『日本英雄伝』第4巻、135頁
  2. ^ 『通俗教育 逸話文庫 学者の巻』233頁「黒川真頼 土蔵の中に隠れて書を読む」。
  3. ^ 『日本英雄伝』第4巻、136頁
  4. ^ 黒川真頼 撰『横文字百人一首』朝倉久兵衛、1873年
  5. ^ 川副佳一郎『日本ローマ字史』岡村書店、1922年。
  6. ^ 土岐善麿『日本式になるまで』東京ローマ字会、1931年、5頁。
  7. ^ 吉田澄夫・井之口有一 編『明治以降國語問題論集』風間書房、1964年、617頁。 
  8. ^ 川澄哲夫 編『資料日本英学史 2英語教育論争史』大修館書店、1978年。 
  9. ^ 川澄哲夫 編『資料日本英学史 1(上)英学ことはじめ』大修館書店、1988年、25頁。 
  10. ^ 古事類苑』第1冊巻頭「古事類苑編纂事歴」。
  11. ^ 農商務省農務局 編『大日本農史博文館、1891年、序頁https://dl.ndl.go.jp/pid/992605/1/2 
  12. ^ 中川一政全文集』 10巻、中央公論社、1986年、100頁。 
  13. ^ 『桐生市略史』58–60頁
  14. ^ 黒川真頼『工芸志料』、p.11、有隣堂、1888年
  15. ^ 『通俗教育 逸話文庫 学者の巻』238頁「黒川真頼 奇体なる手跡」。
  16. ^ 『日本英雄伝』第4巻、137頁
  17. ^ 高村光太郎『随筆 某月某日』竜星閣、1943年、37頁
  18. ^ 梅沢精一『芳崖と雅邦』純正美術社、大正9年、78–81頁「第六 フエノロサ」。
  19. ^ 『上毛大観』248頁
  20. ^ 岩崎雅美「近代にイメージされた奈良朝服飾-東京美術学校の制服・裁判所の法服・京都市美術工芸学校の制服・奈良女子高等師範学校教官の職服を例に奈良女子大学21世紀COEプログラム報告集Vol.6『古代日本と東アジア世界』2005年。
  21. ^ 刑部 p205–206
  22. ^ 刑部 p207–208
  23. ^ 穂積陳重『法窓夜話』有斐閣、1916年、58頁「法服の制定」。
  24. ^ 刑部 p205, 206, 208
  25. ^ 『通俗教育 逸話文庫 学者の巻』235-237頁「黒川判事」。
  26. ^ 読売オンライン2024年5月1日コラム「今につながる日本史」:『虎に翼』が描く女性の「弱さ」と「強さ」…寅子の法服に込められた「自立」への思い 
  27. ^ 毎日新聞2024年5月23日「余録」
  28. ^ 『東京帝国大学五十年史』1322頁
  29. ^ 『黒川真頼全集』第3巻、国書刊行会、1910年、8–9頁「日本美術由来
  30. ^ 中川一政『近くの顔』中央公論美術出版、1967年、134頁。
  31. ^ 『中川一政画集』第十巻、朝日新聞社、1967年、283頁「『美術』の命名」。
  32. ^ 『明治以降国語問題論集』33頁。
  33. ^ 日下部重太郎『現代の国語』大日本図書、1913年、186–187頁
  34. ^ 日本銀行調査局『図録日本の貨幣8 近代兌換制度の確立と動揺』東洋経済新報社、1975年、153頁。
  35. ^ 栗田元次『綜合日本史插画解説』中文館書店、1934年
  36. ^ 『黒川真頼全集』第3巻、196–218頁「法隆寺建築説
  37. ^ 『黒川真頼全集』第2巻、国書刊行会、1910年、176-177頁
  38. ^ 『黒川真頼全集』第5巻、国書刊行会、1911年、101頁
  39. ^ 佐野学『日本経済史概論』早稲田泰文社、1923年、97頁
  40. ^ 『黒川真頼全集』第5巻、265頁
  41. ^ 黒川真頼『工藝志料』博物局、1878年。
  42. ^ 『黒川真頼全集』第3巻「日本漆器種類・蒔絵」。
  43. ^ 遠藤佳那子『近世後期テニヲハ論の展開と活用研究』 p.189、勉誠出版、2019年
  44. ^ 黒川真頼著『工芸志料』、有隣堂、1888年
  45. ^ 高田早苗『半峰昔ばなし』早稲田大学出版部、1927年
  46. ^ 『官報』第150号「叙任」1883年12月26日。
  47. ^ 『官報』第2550号「叙任及辞令」1891年12月28日。
  48. ^ 『官報』第4113号「叙任及辞令」1897年3月23日。
  49. ^ a b 『官報』第4675号「叙任及辞令」1899年2月3日。
  50. ^ 『官報』第3152号「叙任及辞令」1893年12月29日。
  51. ^ 『官報』第4350号「叙任及辞令」1898年1月4日。
  52. ^ 『官報』第6954号「叙任及辞令」1906年9月1日。
  53. ^ 粟田豊三郎『桐影楽事 : 桐生地方伝承史話』、P11、粟田豊三郎、1983年
  54. ^ 桐生織物史編纂会編『桐生織物史人物伝』、桐生織物同業組合、1935年
  55. ^ 桐生織物史編纂会編『桐生織物史』中巻、P383・393、桐生織物同業組合、1938年
  56. ^ 蛯名慶五郎『群馬の代表的人物並事業』1917年、106頁。
  57. ^ 桐生織物史編纂会編『桐生織物史』下巻、155頁、桐生織物同業組合、1940年
  58. ^ 前原悠一郎『桐生の今昔』大和学芸図書、1979年
  59. ^ 永田清一「黒川文庫」『実践女子大学文学部紀要』第23集、1981年。
  60. ^ a b c 『人事興信録』第13版上、1941年。
  61. ^ 『人事興信録』第4版、1915年。
  62. ^ 『人事興信録』第14版、1943年。

参考文献

関連文献

  • 舘野和己・岩崎雅美編『古代服飾の諸相』東方出版、2009年、「黒川眞頼略年表」。
  • 佐藤利之「黒川真頼先生言行録」『國學院雜誌』12巻10–12号、1906年。
  • 大森金五郎「黒川真頼先生の事蹟—過渡期の学者伝のうち」国史講習会『中央史談』13巻11号、1927年。
  • 植木直一郎 (1940-12). “先師の面かげを描く—文学博士黒川真頼先生”. 國學院雜誌 46 (12): p.46–50. https://dl.ndl.go.jp/pid/3365198/1/25. 
  • 甲斐知恵子・石田淑子「黒川真頼」『近代文学研究叢書』8、昭和女子大学光葉会、1958年。
  • 甲斐知恵子「近代文学資料研究日本文学篇一四五 黒川真頼」昭和女子大学『学苑』215、1958年。
  • 國學院大學圖書館編刊『神道書籍解説目録』1、1960年「黒川真頼略伝」。
  • 松村博司「歴史物語について—黒川真頼博士の歴史物語の説に関連して」『金沢文庫研究』95、1963年。
  • 高塩博「黒川真頼」『皇典講究所草創期の人びと』国学院大学、1982年〔國學院大學日本文化研究所編刊『國學院黎明期の群像』1998年)
  • 灰野昭郎「漆芸道中膝栗毛(18・19)東京蒔絵学事始め 『工芸志料』黒川真頼の筆(前・後)」河原書店『茶道雑誌』617、1997年。
  • 柴田光彦「熱海来宮神社にあった田中芳男・黒川真頼の楠板奉納額—黒川文庫目録余話」『東京国立博物館研究誌』572、2001年。
  • 佐多芳彦「黒川真頼の『有識故実学』」古代学協会『古代文化』547、2002年。
  • 吉田衣里「明治期国学者による画史画人伝の編纂—小杉榲邨・黒川真頼を中心に」『鹿島美術財団年報』22、2004年。
  • 平井啓子・大森生惠「黒川真頼頭注『新勅撰和歌集抄』(弄花軒祖能)(1・3〜5)翻字」ノートルダム清心女子大学日本語日本文学会『清心語文』7(2005)、12(2010)、14(2012)、15(2013)。
  • 平井啓子「黒川真頼頭注『新勅撰和歌集抄』(弄花軒祖能)(2)翻字」工藤進思郎先生退職記念の会編刊『工藤進思郎先生退職記念論文・随想集』2009年。
  • 香山キミ子「黒川真頼稿『山吹物語』翻刻と解題」工藤進思郎先生退職記念の会編刊『工藤進思郎先生退職記念論文・随想集』2009年。
  • 香山キミ子「ノートルダム清心女子大学附属図書館蔵 黒川真頼詠・同春村評『もゝちとり』解題と翻刻(1〜3)」ノートルダム清心女子大学日本語日本文学会『清心語文』12–14、2010–12年。
  • 浜口直也「「助詞」という名称の断絶—黒川真頼の系譜」国学院大学国語研究会『国語研究』75、2012年。
  • 香山キミ子「ノートルダム清心女子大学附属図書館蔵 黒川真頼詠・同春村評『もゝちとり』解題」ノートルダム清心女子大学日本語日本文学会『清心語文』17、2015年。
  • 遠藤佳那子「黒川真頼の活用研究と草稿「語学雑図」」日本語学会『日本語の研究』122、2016年。

外部リンク

公職
先代
高嶺秀夫
部長
帝国博物館歴史部長心得
1898年
次代
三宅米吉



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