黒河龍三とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 黒河龍三の意味・解説 

黒河龍三

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/27 12:56 UTC 版)

黒河 龍三(くろかわ りゅうぞう、1892年明治25年)10月9日 - 1935年昭和10年)1月)は、日本数学者旧制第一高等学校教授。

経歴・人物

東京で杉村彦右衛門の二男として生まれ、外祖父・黒川春村を嗣ぎ、黒河を名乗る。 旧制第一高等学校を卒業、1916年大正5年)東京帝国大学理学部数学科卒業後すぐ第一高等学校の数学講師に就任する。 1918年(大正7年)第一高等学校教授を拝命、東京高等師範学校 東京文理科大学の講師も務める。

「竹のひご」と「えんどう豆」を使った空間幾何学の講義や[1]三角関数指数関数で表され、逆三角関数解析関数であるから、初等関数は結局代数関数、指数関数、対数関数の有限個の組み合わせであるという説明など、教科書を使わずに講義案を周到に準備し、論理学上厳格かつ極めて明快な講義を進めていった[2]

教え子の数学者・吉田洋一によると、東京帝大の数学科でも稀にみる大秀才で、一高の生徒時代は毎日弁当を2つ持って通学、授業が終わると毎日学校の図書館にたてこもり、夕食を弁当で済ませて、九時の閉館まで数学の本を読み漁っていたという伝説が生徒に語り継がれていた。数学以外のことには無関心で、身を持ちするほど厳格だったが、若い人に対しては極めて親切で寛大、無茶な意見を言われても怒りもせず、きちんと意見をよく聞いたという[3]

一高科学会の会員[4]、一高スキー部の部長も務め[5]、琴の名手だった[6]。 親族を東大病院で喪って以来、漢方医学に凝り、平田内蔵吉の著書にも寄稿している[7]胃潰瘍がひどくなっても漢方のみに頼り、入院した時は手遅れで若くして亡くなった。正五位勲五等を追贈された[8]

家族・親族

著書

脚注

  1. ^ 川越一夫『日数教六十年の歩みと算数・数学教育の変遷』、P147、1978年
  2. ^ 『わが師・わが友』P25、みすず書房、1967年
  3. ^ 『わが師・わが友』P27、みすず書房、1967年
  4. ^ 第一高等学校寄宿寮編『向陵誌』、P1932、第一高等学校寄宿寮、1930年
  5. ^ 第一高等学校寄宿寮編『向陵誌』、P1504,第一高等学校寄宿寮、1930年
  6. ^ 東大十四年会『私共の歩んだ道』P135、東大十四年会、1984年
  7. ^ 平田内蔵吉『熱鍼心療看護の友』、P147~152「医療に関する考への変化」斯文堂書店、1933年
  8. ^ 大蔵省印刷局『官報』1935年02月02日
  9. ^ 国華倶楽部『罹災美術品目録』、吉川忠志、1933年
  10. ^ 『帝国大学出身名鑑』、校友調査会、1934年



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  黒河龍三のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「黒河龍三」の関連用語

黒河龍三のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



黒河龍三のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの黒河龍三 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS