黒河道とは? わかりやすく解説

黒河道

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/07/15 08:45 UTC 版)

中華民国 黒竜江省 (中華民国)省 黒河道
1914年 - 1929年
簡体字 黒河
繁体字 黑河
Hēihé
カタカナ転記 ヘイホー
国家 中華民国
黒竜江省 (中華民国)
行政級別
政府所在地 璦琿県
建置 1914年
廃止 1929年 
面積
- 総面積({{{area_metro_as_of}}}) km²
人口

黒河道(こくか-どう)は中華民国北京政府により設置された黒竜江省の道。

沿革

1914年民国3年)5月に設置。道尹は璦琿県に置かれ、下部に璦琿、呼瑪、蘿北の3県及び漠河設治局した。1916年(民国5年)5月に烏雲設治局、1917年(民国6年)4月に綏東設治局、1927年(民国16年)9月に仏山設治局が新設された。1929年(民国18年)2月に廃止されている。

行政区画

廃止直前の下部行政区画は下記の通り。(50音順)

脚注


黒河道

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/04 10:23 UTC 版)

高野参詣道」の記事における「黒河道」の解説

黒河道(くろこみち)は、和歌山県橋本市定福寺起点とし、粉撞峠(子継峠)や高野三山のうちの2つ楊柳山摩尼山の間にある黒子峠を越え高野山入口である黒川口に至る参詣道である。町石道京大坂道より東にあり、橋本市大和国奈良方面からの参詣者が利用したことから大和口とも呼ばれていた。京大坂道よりも距離が長く起伏激しいことから地元民以外には、それほど多く利用されなかった。地域産物高野山奉納する雑事(ぞうじ)のぼり」にも利用された。「紀伊続風土記」に、1594(文禄3年豊臣秀吉高野参詣帰路に黒河道を用いたとあり、秀吉通った黒河道の経路記され沿道には秀吉ゆかりの名が付いた太閤坂」「太閤馬返し」「沓場」などが残る。豊臣秀吉が、母大政所三回忌の際に高野山開創以来禁令笛太鼓や鼓などを用いた能狂言催したところ、当日がなかったが、能が始まると暗雲広がり天地振動し凄まじい雷雨襲い大師怒り恐れおののいた秀吉は、単騎一目散に山を駆け降り難を逃れたとの逸話が残る。逸話であり真意不明だが、同じよう逸話『太閤記』紀伊続風土記』『紀伊国名所図会』『室町殿日記』などに記されている。 黒河道 子継峠 子継地蔵 道標26

※この「黒河道」の解説は、「高野参詣道」の解説の一部です。
「黒河道」を含む「高野参詣道」の記事については、「高野参詣道」の概要を参照ください。

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