駅の移転 1902年 - 1955年
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「ハイデルベルク中央駅」の記事における「駅の移転 1902年 - 1955年」の解説
20世紀初頭には、駅の周りにおいて、北側でベルクハイム(ドイツ語版)、南側でこんにちのヴェストシュタット(ドイツ語版)が開発され、鉄道施設の拡張を妨げることになった。1902年の時点で平日はハイデルベルクから340本の列車が運転されていた。1954年/1955年のダイヤでは、400本以上になっていた。駅の容量は限界に達していたため、重要な長距離列車はハイデルベルクを迂回するようになっていた。 同時に、駅は都市設計に影響を与えるようになっていた。1862年のオーデンヴァルト線建設以降、道路交通が増加してきて、こんにちのアデナウアー広場のところにあったローアバッハ通りとの踏切は特に交通の妨げとなっていた。1949年末の時点で、1日3 - 4時間は閉じるこの踏切を10,800台の車が通行していた。ここには歩行者用の地下道が1893年に開設されていた。ハイデルベルク市電(ドイツ語版)の路線は踏切の両側で途切れており、市電の乗客は踏切を徒歩で横断しなければならなかった。この踏切が、駅の移転の大きな理由の一つとなった。 1873年には駅の移転の検討が行われていた。しかしこれは、駅近傍で営業していたホテル業者に反対された。1892年には木造の駅舎の1棟が火災で焼け落ちたが、野次馬の中には駅全体が焼けてしまえと思っていた人もいたであろう。1895年にマイン-ネッカー鉄道が国有化されたことで、1890年代の当初の計画を促進することになった。当初の町の側の希望は、駅を市街中心部にできるだけ近くするために、現在地で駅を高架化することであった。1901年にハイデルベルクの市民委員会は、現在地からおよそ1 km西に新しい通過式配線の駅を建設するというバーデン大公国邦有鉄道からの提案を承認した。1908年のバーデン大公国邦有鉄道による最初の設計では、20の番線を持った通過式配線の駅となっていた。また線路別運転が行われることになっていた。総建設費は4000万ドイツマルクと見積もられた。 1902年の起工式の後、全長約3 km、幅最大250 m、4 - 5 mの深さの掘割の中に旅客駅を建設する工事が開始された。掘り出された土砂は、操車場と貨物駅を高い位置に持ち上げる盛土のために利用された。旅客駅の南西側に位置していた操車場は、1914年3月に運用を開始した。1910年10月に、およそ15か月にわたる掘削工事を終えて全長約2,500 mのケーニヒシュトゥールトンネルが完成し、オーデンヴァルト線を新しい駅に接続した。第一次世界大戦の勃発に伴い工事は中断された。この時点で、オーデンヴァルト線の貨物列車はケーニヒシュトゥールトンネルを通って走行しており、ハイデルベルク市街地の踏切の問題を幾分緩和していた。 大戦後は、経済的な事情から当初は建設計画は中止されていた。1926年から、計画されていた駅とヴィープリンゲン(ドイツ語版)の間に信号場と車両基地の建設が行われ、1928年に運用を開始した。1932年から1936年にかけて、ハイデルベルク・アルトシュタット駅(ドイツ語版)(別名カールストーア駅)がケーニヒシュトゥールトンネルの東側入口付近に再建された。1933年には、見通しのつく限りの期間では、駅の建設計画続行に必要な資金を負担できないと鉄道管理当局が決定した。 ナチス・ドイツの時代には、1929年から1945年までハイデルベルク市長を務めたカール・ナインハウス(ドイツ語版)が駅移転計画において重要人物となった。ナインハウスは都心部の包括的な再設計を行い、これには鉄道施設の一掃が必要であった。1936年に市議会は建築家のパウル・ボーナッツ(ドイツ語版)に設計を依頼し、2年後にはゲルマン・ベステルマイヤー(ドイツ語版)、ハンス・フレーゼ(ドイツ語版)、コンスタンティ・グートショウ(ドイツ語版)といった人物も参加することになった。1938年にナインハウスはアルベルト・シュペーアと連絡を取った。シュペーアの助けを得て、アドルフ・ヒトラーは1941年5月にハイデルベルクを「再設計都市」(Neugestaltungsstadt) に指定する命令に署名した。このようにして計画は促進され、第二次世界大戦が終結次第建設に取り掛かれるはずであった。1908年から1914年までと、1926年から1939年までの建設期間に、新しいハイデルベルク中央駅の設備のおよそ80パーセントができあがっていた。 計画は1943年に第二次世界大戦によって中断されたが、その中でフレーゼが着想したこととして、かつての駅の地区を貫いて新駅と都心部を結ぶ大通りがある。この道路は東側にハイデルベルク城を、西側に新しい駅の駅舎を望むことになる。駅舎は大通りに対して垂直に、そして線路に対しては斜めに建てられることになる。 第二次世界大戦中、駅はわずかな部分のみが被害を受けた。特に被害を受けたのは工場と貨物駅の部分であった。1947年から駅建設の継続に関して広く討論が行われた。戦争終結時点で、1952年時点での通貨価値に換算して7000万ドイツマルクの投資が必要とされる計画されていた設備のうち、80パーセントが完成していた。計画の見直しにより、番線の数は20から8に減らされ、これにより残りの建設費用が1200万ドイツマルクに削減された。バーデン=ヴュルテンベルク州政府は250万ドイツマルクを借り入れてこの費用を負担した。1949年に発足したドイツ連邦鉄道(西ドイツ国鉄)にとって最初の大規模プロジェクトとして、工事再開の鍬入れが1950年9月12日に行われた。1914年以来ほとんど使われていなかった掘割は、計画されていた電化のための余地を確保するためにさらに50 cm掘り下げられた。
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