輸入までのいきさつ
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「ファンジとグレー」の記事における「輸入までのいきさつ」の解説
日本人で初めて生きたキリンの実物を見たのは、1862年(文久2年)に江戸幕府が送りだした文久遣欧使節(38名)とされている。遣欧使節の一行は、パリ、ロンドン、ロッテルダム、アムステルダム、ベルリンの各都市で動物園を見学した。一行がキリンを見たのは、ロンドン動物園であった。当時の日記ではキリン(giraffe)に「之猟猢」(ジラーベ)という字をあてて「豹紋にして驢足(注:ロバの足を指す)、からだは人より高く、頸の長さは六尺(約1.82メートル)、頂より蹄に至るまで高さ一丈五尺(約4.55メートル)強、木葉を食いて草を食せず」と記述していた。 giraffeに「麒麟」を当てることは、桂川甫周が1799年(寛政元年)ごろに描いた「麒麟図」までさかのぼることができる。ただし甫周は実物のキリンを見たわけではなく、ヤン・ヨンストンの『動物誌』を参考にしてこの図を描いたと推定されている。その後1877年(明治10年)に田中芳男が、前年のフィラデルフィア万国博覧会で入手したgiraffeの剥製を日本に持ち帰ってきた際にも、「麒麟」という名称を使っていた。田中の持ち帰った剥製は、1882年(明治15年)に上野動物園内の博物館でも展示された。 1900年(明治33年)、帝国大学農科大学の教授で動物学者の石川千代松は東京帝室博物館天産部長兼動物園監督に任命された。ドイツ留学の経験があって日本国外の動物園事情に通じていた石川は、当時外国産の大動物といえばラクダとトラ程度しかいなかった上野動物園では「動物園」の名称に値しないと考えていた。石川は自らの職名を「ディレクター・オブ・インペリアル・ズー」(直訳すれば帝室動物園園長)として、ドイツの動物商カール・ハーゲンベックと動物取引に関する交渉を開始した。 石川とハーゲンベックの交渉による動物取引で、1902年(明治35年)10月に第1陣となる12種22点の動物が上野動物園に来園した。この中にはライオン(2頭で価格は当時約2475円)、ホッキョクグマ(2頭で約742円)、ダチョウ(2羽で約890円)などがいて、ポンドによる外貨払いで決済された。翌1903年(明治36年)には、第2陣、第3陣の動物が輸入された。当時の日本は日露戦争開戦前の不安な世相の中で動物園の観客も収入も減った時期で財政が苦しかったため、第2陣と第3陣の支払いは現金払いではなくタンチョウやシカ、ツキノワグマなどの日本産の鳥獣との「物々交換」の形式で決済された。 最初にハーゲンベックからキリンの輸入についての手紙が届いたのは、1904年(明治37年)3月9日のことであった。手紙の内容は、キリンとシマウマを1450ポンドで買わないかと購入を勧めるものであった。ハーゲンベックの提示した金額は当時の日本円で1万4500円に相当したが、当時の動物園の動物購入予算額は年間で2000円に過ぎず、とうてい手の届くものではなかった。このとき石川は、日露戦争中で動物園の観客も減り予算もないという理由でこの勧めを断っていた。日露戦争で日本が勝った翌年の1906年(明治39年)11月30日に、再度の手紙がハーゲンベックから届いた。この手紙でハーゲンベックはキリンのつがいについて知らせ、輸送料込みで1600ポンドで買わないかと勧めた上で「他にも欲しがっているところがあるので、欲しければ電報で諾否を知らせてほしい」と書いてきていた。石川はキリンを乗せた船が横浜港に入港する前に予算上の措置をすればよいと考え、翌日購入希望の返電を打った。 しかし予算上の措置どころか収容する動物舎さえできていなかった1907年(明治40年)3月15日に、キリンのつがいを載せたドイツ船パスボルグ号が横浜港に入港した。パスボルグ号にはキリンとともに、ワッヘという名のインド人男性がハーゲンベックから派遣されて乗船していた。横浜港から東京には屋根なしの貨車で鉄道輸送しようとしたが、キリンは神奈川のトンネルと品川の陸橋の下をくぐることができず、達磨船で日本橋浜町河岸に陸揚げしてから大八車2台に分乗させた。3月18日にキリンは上野動物園に到着した。このキリンのつがいはオスの名を「ファンジ」、メスの名は「グレー」といった。1906年(明治39年)12月から1957年(昭和32年)3月まで50年以上にわたって上野動物園に勤務した高橋峯吉は、自著『動物たちと50年』で「伝説にある麒麟とは似ても似つかぬおとなしそうな顔に、ちょっと意外な気がした」と当時を回想している。 キリンのつがいが予想よりも早く到着したため、上野動物園側では2つの問題を早急に解決せざるを得なくなった。1つ目はキリンを収容する場所であり、検討の結果ラクダ小屋の屋根をぶち抜き、急造のキリン舎として使用することに決まった。当時ラクダの飼育を担当していた高橋も大工と一緒にキリン舎の工事に携わり、キリンの背の高さに合わせて継ぎ足した柱に屋根代わりの筵を張り巡らせた。筵でキリンの姿を隠しては見たものの、日本橋浜町河岸からの運搬の際にもすでに見物人が集まって衆人環視の中で運ぶ羽目になったこともあって、キリンの記事が新聞にも取り上げられていた。 2つ目の問題は予算上の措置であった。石川は宮内省や財政当局への説明の際、giraffeでは理解を得られないと考えて以前田中が使った「キリン」の名称を使用した。宮内省が購入を許可しないうちにキリンが先に到着ししかもそれが周知の事実になったため、年度変わりである4月まで一般公開を延ばして予算を承認するかたちにした。 まだ予算措置ができていないうちにキリンが先に到着するという事態の責任を、石川は取らされることになった。同年5月8日に帝室博物館総長の股野琢と主事の久保田昮は、「進退伺」を宮内大臣田中光顕に提出した。この書類に添付されていた手続書には、キリン購入は数年前からの懸案であったとの記述が見られた。しかも年度変わりの4月1日から入園料を大人4銭から5銭、小人2銭から3銭とそれぞれ値上げしていたため、『物語 上野動物園の歴史』の著者小宮輝之 は「明治四十年度のあいだにキリン購入を内定していたように解釈することもできる」と指摘した。股野と久保田は譴責処分(同年6月24日付)を受けただけだったが、石川は5月15日に「願ニ依リ兼官ヲ免ズ」という辞令を宮内大臣田中光顕から受け取り、依願退職の形で上野動物園を去った。
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