輸入と試写
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 16:31 UTC 版)
稲畑勝太郎は、青年時代にフランスのリヨンの工業学校に留学し、帰国後は稲畑染料店(後の稲畑産業)を開業するなどして紡績や染色業で活躍したが、1896年に社用で再びフランスを訪れた際に、工業学校の同級生だったオーギュスト・リュミエールに会い、彼の勧めでシネマトグラフを目にした。これに魅力を感じた稲畑は、リュミエールと交渉してシネマトグラフの興行認可を受け、日本におけるリュミエール社の興行代理人となった。そしてシネマトグラフの操作と興行収入の監視の役目を担うリュミエール社技師のコンスタン・ジレルを伴い、同年11月に装置とフィルムを携えてナタル号でフランスを出発し、翌1897年1月9日に神戸港に到着した。 日本に持ち込まれたシネマトグラフの台数は、長い間にわたり正確な数字が不明となっていたが、2017年に稲畑がリュミエールに宛てた4通の書簡が発掘され、2020年に映画史研究者の長谷憲一郎がそれに基づく調査結果を発表したことで明らかにされた。その調査結果によると、帰国時に稲畑は2台、ジレルは自身が携行する1台のシネマトグラフを持ち込み、さらに1897年7月までに稲畑は2台のシネマトグラフを追加で輸入しており、計5台のシネマトグラフが日本国内で稼働していたという。 帰国した稲畑は、京都の四条河原町の野天でシネマトグラフの試写を行ったが、当時は適当な映写設備もなければ、それを扱う技術や電気の知識も乏しかったため、カーボンに通じる電流の程度さえ分からず、電流を通すとカーボンが飛んで危険な状態になったりして、映写は上手くいかなかった。そこで稲畑は京都電燈の技師に相談し、彼の考案により島津製作所に変圧器を作らせ、四条河原町の電燈会社の庭(後の京都市立立誠小学校敷地、現在の立誠ガーデン ヒューリック京都)にスクリーンを張って試験を重ね、ようやく映写を成功させることができた。
※この「輸入と試写」の解説は、「シネマトグラフ」の解説の一部です。
「輸入と試写」を含む「シネマトグラフ」の記事については、「シネマトグラフ」の概要を参照ください。
- 輸入と試写のページへのリンク