言語・文学
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1918年のチェコスロヴァキア独立以前、ボヘミアは長きにわたりハプスブルク帝国の支配下にあったため、ボヘミア文学やチェコ語の歴史はチェコ民族の独自性を守ろうとする運動と深く関連している。 ボヘミアでは1097年にラテン語が書き言葉として導入されたが、次第にチェコ語に置き換えられていった。最も早い時期のチェコ語文献は13世紀のプシェミスル朝宮廷の文書で、讃美歌が主だった。14世紀になると聖人伝や伝説、英雄譚や年代記、騎士道ロマンスなどのチェコ語韻文作品が登場した。こうした文学作品で特に早期に成立した作品の1つとして、フランスで書かれたラテン語詩をもとにしたアレクサンドロス大王の伝記がある。1350年ごろから散文も登場し始める。当初は聖人伝や年代記に用いられた形式だったが、次第に大衆的な中世物語も散文で書かれるようになった。14世紀末には、風刺韻文や教訓詩、またスミル・フラシュカのノヴァー・ラダ(新たなる評議会)のような政治風刺文学も生まれた。これはボヘミア王に対し貴族の権利を守るため執筆されたものである。 15世紀初頭にヤン・フスによるボヘミア宗教改革が始まり、宗教改革者たちは2世紀に及ぶカトリック教会や神聖ローマ皇帝との闘争に突入した。この時代の宗旨論争や改革派の内部抗争の結果、実用的な分野においてもチェコ語による筆記が促進された。フス自身もチェコ語で説教を行い、『ボヘミア語の正書法について』(ラテン語: De orthographia Bohemica)と題した論文を執筆してチェコ語表記法の改革を訴えたとされる。彼の後継者の1人であるペトル・ヘルチツキーはより急進的な論文を書いて同胞団の発端となり、この後2世紀にわたり重要なチェコ語文学を輩出していくモラヴィア兄弟団の原型を作った。 16世紀のボヘミア文学は、ルネサンス期のヒューマニズムに影響を受けた教訓書や学術論文が中心となった。1579年から1593年の間には、同胞団の学者たちがチェコ語の翻訳聖書(クラリッス聖書)を制作し、これが古典的チェコ語の原型となった。 1620年にハプスブルク家がボヘミアのプロテスタントを打倒し、ボヘミア貴族が駆逐されたのち、ボヘミアにはチェコ語の知識が乏しいドイツ人貴族が入ってきた。これまでの2世紀の間に培われたチェコ語の伝統はハプスブルク家の支配下で否定され、国外に亡命したチェコ人のみがボヘミア文学を存続させていた。こうした亡命チェコ人で特に重要なのが、教育学者として知られるヤン・アーモス・コメンスキー(ヨハネス・アモス・コメニウス)である。彼が1631年に著した『地上の迷宮と心の楽園』(チェコ語: Labyrint světa a ráj srdce)は、チェコ語による散文としては偉大な作品の1つに数えられている。しかし18世紀までに、チェコ語は文学においても使われなくなっていった。 18世紀後半に歴史主義や懐古主義の風潮が生まれ、多くのチェコ人学者たちがボヘミアの古文学や歴史を研究するようになった。さらに、マリア・テレジアによるハプスブルク帝国の中央集権政策に反対してボヘミアに愛国主義が勃興した。この2つのロマン主義的な現象の結果として、19世紀前半、チェコ民族復活運動が生まれた。またこの頃、社会的・経済的な発展が進んだボヘミアでは中流階級が拡大し、ボヘミア文学の読者層が増えることになった。 チェコ・ロマン主義は学術・文学の両面によって弾みがついた。ヨセフ・ドブロフスキーはチェコ語の書き言葉を研究し、再体系化した。ヨセフ・ユングマンは翻訳文学を発展させることで、チェコ語の語彙を拡張・改新するとともに、1835年から1839年にかけてチェコ語・ドイツ語辞書を編纂した。モラヴィアでも、歴史家のフランティシェク・パラツキーやスロヴァキア人の考古学者パヴェル・ヨセフ・シャファジクらがチェコ語復興に取り組んだ。スロヴァキア人のヤン・コラールは、チェコ語で風刺的なソネット連作『スラヴの娘』(チェコ語: Slávy dcera)を書いた。これは復興チェコ語の最初の重要な文学作品である。 チェコ・ロマン主義時代の、そしてチェコ文学史上最大の詩人がカレル・ヒネク・マーハである。1836年の抒情詩『五月』(チェコ語: Máj)にはジョージ・ゴードン・バイロンやウォルター・スコット、ポーランド・ロマン主義の影響がみられるが、マーハは強烈な詩的ビジョンと完璧な言語使用によってこれらの先駆者を超越している。1840年代になると、ロマン主義に対抗する動きが出てくる。政治ジャーナリストのカレル・ハヴリーチェク・ボロフスキーや小説家ボジェナ・ニェムツォヴァーらはより政治問題に関心を寄せ、チェコ語を日常の会話に導入することでチェコの伝統の復興を図った。 19世紀後半、リベラルで現実主義的なナショナリズムにチェコ文学を浸透させようと試みる「五月グループ」が登場した。代表的な作家としては、詩人・短編作家のヤン・ネルダや小説家カロリナ・スヴェトラー、詩人ヴィーテェツラフ・ハーレクなどがいる。 1870年代までに詩や小説の分野でチェコ語が確立されたが、演劇はそれらに後れを取っていた。チェコ語の文学分野はルミル派とルフ派の2つに集約され、前者はチェコ文学をヨーロッパ化する必要性を説いたが、後者はチェコ本来の伝統に重きを置いた。エミル・フリーダ(仮名ヤロスラフ・ヴルヒツキー)はチェコ文学史で最も多作な人物の1人で、コスモポリタニズム的な潮流を牽引した。彼は熟達したチェコ語で抒情詩を生み出していった。彼の作品は各国語に翻訳され、ヨーロッパじゅうの作家に影響を与えた。ユリウス・ゼヴェルの短編にもコスモポリタニズムの思想がうかがえる。この時代の民族主義的な文学者としてはスヴァトプルク・チェフが挙げられる。彼は歴史的な叙事詩を再構成してのどかなチェコ人の生活を描き、実利主義的なチェコ人の中産階級を風刺した。 19世紀後半のチェコの文学は、歴史小説家のアロイス・イラーセクやジクムンド・ヴィンターにみられるような現実的な記述が主流となった。彼らはチェコの歴史を理想化して描いていたが、その細部には学術研究の成果が反映されていた。イラーセクは自分の時代まで至る全チェコ史を小説で描き、その中にはフス派の時代や1780年以降の民族復活の時代も含まれていた。19世紀末、詩の分野ではオタカル・ブジェジナ(仮名ヴァーツラフ・イェバヴィー)、ペトル・ベズルチ(仮名ヴラディミール・ヴァシェク)らによる新潮流が生まれた。ブジェジナは繊細で独創的な言葉で自分の信条を語り、彼の韻律は後のチェコ詩歌に大きな影響を与えた。
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