胆沢平野
| 疏水の概要 | |||||||||||||||
■疏水の所在 岩手県奥州市を中心とする胆沢平野地域 ■所在地域の概要 岩手県の西南部に位置する胆沢平野地域。岩手県内有数の穀倉地帯として農業生産の中核を担っている。 ■疏水の概要・特徴 葦名堰は胆沢扇状地の南側に接する衣川村の北股側に水源を求め、後藤寿安が寿安堰の工事に着手したといわれる元和4年(1618年)に、衣川荘の領主であった葦名氏が小山の二の台を開発するため、5代51年の開削した延長24,140mの水路である。このうち、穴堰は15箇所で5,530mに達する。 寿安堰は、江戸時代に伊達藩の福原(現在の水沢市付近)を治めていた領主、後藤寿安により開削された。当時の胆沢平野地域は恒常的に水不足に悩まされており、苦しむ農民を憂いた寿安は水路の開削に踏み切ったという。寿安はキリシタンでもあり、若い頃は長崎等に渡って海外の進んだ技術に触れていたことから、地形的に困難な水路開削を可能としたとの説がある。しかし、キリシタンへの弾圧が強くなったことから、寿安は水路の完成を待たずに領地を去ることになった。だがその意志は後進に受け継がれ、千田佐馬父子や遠藤大学により現在の「寿安上堰」が完成された。 旧穴山堰は、今から約500年前に造られた胆沢平野扇状地最古の用水堰と言われている。その一部が今でも現在の穴山堰として利用されている。旧穴山堰は、いつ、だれが、どのようにして造ったのか、いまだ多くの謎に包まれている。しかし、近年の調査結果から旧穴山堰は、胆沢川の馬留橋付近から市野々、萱刈窪を経て前沢町白鳥地域に水を引くために作られた全長約18kmの農業用水路であることが判明している。 茂井羅堰に関する最も古い文献資料は、貞享元年(1684)9月6日の「永徳寺文書」である。「重羅、三堰、山田浦三ヶ所之堰者上下伊沢之用水也」とあって、シゲイラを「重羅」と記載している。以下元禄11年(1698)9月、正徳2年(1712)10月18日の永徳寺文書の中にも「茂井羅堰」の名が出てくる。 享保3年(1718)の塩竃村絵図の中にも「しいらせき」(「け」は脱字と思われる)の名が見える。 これらの文献よりも古い年代で、茂井羅堰の開鑿年代を特定したものが、『胆沢風土聞誌』である。これは安永2年(1773)に留守家家臣向井右膳太の子、迎(向井)信旧が編集 し、明治7年(1874)には坂野嵯峨麿が校正したとされている。 この『胆沢風土聞誌』によれば、茂井羅堰は「元亀年間」に開鑿されたと記されている。 「元亀」の年号は、西暦で1570年4月23日から、1573年7月28日までの3年3ヶ月しかない。仮りにこの時代と特定されれば、室町時代最後の期間ということになる。 茂井羅堰についての記述は、『胆沢風土聞誌』を根拠に「安永風土記」、さらには『岩手県管轄地誌』などに引用踏襲されていく。 茂井羅堰は、胆沢川を堰止めて取水していた。この方式は古くから取られていて、先の貞享元年「永徳寺文書」にも、「毎年、永徳寺山より川留紫五百駄余も為伐申大河二而・・・・・・」とあり、胆沢川を堰止めるための柴を毎年永徳寺の山から伐り出していたことがわかる。 板橋源(明治41年盛岡市生まれ、元岩手大学教授、専門は国史)によれば、茂井羅堰は一定規格で一斉の工事はされなかったと 考えられた。その根拠は、明治13年(1880)に発行された『岩手県管轄地誌』の茂井羅堰に関する記述で、同誌によると、茂井羅の堰幅は若柳村、東田村で3間、満倉村に入ると、堰幅の広い所は4間、狭い所で2間3尺、深い所は6尺、浅い所で7寸、下河原村に至ると、堰幅の広い所は4間、狭い所は3間、深い所は4尺、浅い場所は1尺というように、堰幅、深さともに一定ではないというのである。 さらに同教授は、寿安堰との比較において、茂井羅堰の方が、胆沢川の本流に沿い、取水地点も受益地に近く、また平坦地を通っているために開鑿技術面では容易であること、『胆沢風土聞誌』の堰の記載順序が、「茂井羅、寿庵、三堰」となっていること、時期と理由は不明だが、分水比率が寿安堰36.5に対し、茂井羅堰は63.5であることなどから、寿安堰よりも茂井羅堰の開鑿が早いとしている。 茂井羅堰の開鑿年代にしても、板橋説は元亀年間よりも古い時代であると推測している。その根拠としては、元亀よりも以前に柳田、八幡、新里、下葉場、下川原等にはかなりの水田があったという中世文書を例証にしている。 また、天文3年(1534)8月7日付で、石川越後守が軍功ありとして「下川原ニテ三千刈、若柳村ニ而五千刈」を貰っていることなども挙げている。 例証では、茂井羅に関わるさらに古い文書等がある。 久寿元年(1154)3月8日付の「平泉中尊寺文書」の経蔵別当蓮光譲状では、胆沢の栃木郷に金色堂の「供養法田弐町」とあることが記されているほか、部分的ではあるものの、中半入遺跡には平安時代の水田跡もある。 「元亀」年代をどこまで遡れるのか、謎は未だに解明されていないのである。 ただ、『岩手県管轄地誌』に、若柳村の項で「茂井羅溝」とあって、「木村ノ東方字茂井羅ニテ胆沢川ヨリ上水東田村ニ入ル」(・点筆者)とあるのは興味深い。茂井羅を地名として「字」扱いしていること、東田村以下は「茂井羅川」としている点などに、茂井羅堰の「謎」を解く手掛かりがあるかもしれない。 また、17世紀末から18世紀初めにかけての「永徳寺文書」には、「しけいら」の上(揚)場が永徳寺近くの胆沢川にあって、いずれも「御用水」と記されているところからは、仙台藩が勧農、用水対策を重要視していたことが伺い知れる。 茂井羅堰の開鑿者は、「北郷茂井羅」という女性の名が付けられたという説がある。 その初出は、先の『胆沢風土聞誌』にあり、「北郷茂井羅女」は、「北郷氏は蜂谷某の妻であったが、容貌が美しくなかったので後に離縁された。その後、本村に逃れてきた彼女は、村人に堰づくりをすすめたところ、皆はそのすばらしさに感服し、彼女に従い胆沢川の上流から水を引き堰を掘った。彼女は人夫を督励し、あっという間に堰を造り、郡の中央数ヶ所の村に水を通してしまった。こんな大事業は男でも及ばないことである。そこで彼女の名前をとって茂井羅堰と云っている」と意訳される。 茂井羅堰は、胆沢平野土地改良区のシンボルとも言える円筒分水工から水が流れてきている。寿安堰との2大水系に決められた割合に分けるこの施設は、昭和32年に造成され、平成7年に1回り大きく改修された。春には放水式が盛大に行なわれ、それに合わせたかのように周辺の桜回廊が一斉に開花する姿はまさに圧巻である。 | ||||||||||||||||
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